小人閑居して不善を為す chapter3

一介のプレイヤーからハイスコアラー、そしてゲームセンターの中の人を経てアーケードゲームと関わること40年以上、その普通とはかなり異なるゲーマー人生を回顧するべく記事を綴っております。

私のアーケードゲーム履歴書 サイバトラー 特別編

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ハムスターがリリースをしているPS4、Switch向け「アーケードアーカイブス」シリーズに「サイバトラー」が2月18日に配信開始されました。

www.hamster.co.jp

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僭越ながら今回のサイバトラーではテストプレイヤーとしてお声掛け頂いたため、協力させて頂きました。

1993年リリースのタイトルなので四半世紀以上まともにプレイをしていなかったこともあり、リハビリを行うもテストプレイまでに何とか1コインクリア出来る程度にまで持っていくのが精一杯...スコア狙いをしていた全盛期には程遠いプレイでしたが、移植度として特に問題ないレベルであることは確認出来たと思います。

 

また、ゲームそのもののチェックとは別に操作デバイスについて要望させてもらっています。

弊ブログのサイバトラーその1でも記載しましたが特にこのゲームは操作系が特殊で、ゲーム中に使用する可能性がある入力として、

①ショット(Aボタン)連射無し:1面の攻撃で使用(連射するとショットが拡がらず攻撃力が落ちる)

②ショット(Aボタン)連射付き:3面以降の攻撃で使用するが、方向が固定できないため連射無しソードボタンを同時に押す必要がある。

➂ソード(Bボタン):連射があれば便利だが、連射付きショットの向きを固定するために連射無しソードも併用しなければならない。

 

上記を全て満たすためには、Aボタン(ショット)、Bボタン(ソード)共に連射有り、無しの計4ボタンを用意しなければなりません。

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(株式会社HORI リアルアーケードプロHAYABUSA 取扱説明書より)

その4ボタンをコンパネ上に配置しようとすれば、上記アケコン(RAP)においては

□:ショット連射なし

△:ショット連射付き

×:ソード連射なし

〇:ソード連射付き

のような配置になると思いますが、方向固定連射とするためには△と×を同時に押す必要があるため煩雑なボタン操作を求められます。

(ボタン操作で親指を普通に使う方はそれ程苦にしないかもしれませんが)

 

自分がプレイする場合は

□:ショット連射なし

△:ソード連射なし

R1:ショット連射付き

と配置していますが、それでも方向固定では△+R1という操作を行う必要があり、かつソードは手連射しなければなりません。

 

その煩わしいボタン入力を改善し少しでも遊び易くするため、いわば方向固定連射ボタン(ショット連射+ソードホールド)を設けられないか要望した所、見事にその機能を実装して頂けました。

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(2021年2月18日 ニコニコ生放送「第293回アーケードアーカーバー サイバトラースペシャル」より)

なんと私PS4もSwitchも持ち合わせておらず、実ソフトでの確認が出来ないため、ニコ生のボタン設定画面から画像を抽出しました。(ででおさんはモザイク加工させて頂きましたw)

 

画面ではR2ボタンに「ソード+ショット」の設定が表示されています。

連射なしだと普通の同時押しになりますが、このボタンに連射を設定すると画面下部注意書きにも記載されている通り、「ショットにのみ連射が反映」されるため、連射を設定し押しっぱなしにすることで「ショット連射+ソードホールド」の機能を有することになります。

 

以下は私の推奨設定です。

□:ショット連射なし

△:ソード連射付き(30連射)

R1:ソード+ショット連射付き(30連射)

ショット、ソード共に連射速度は最速の30連設定で問題ありません。

このボタンを活用することで、特に3面以降の攻略がスムーズに進むことと思いますので、敵に押されて苦労された方は是非お試し頂きたいです。

  

また手前味噌ですが、これまでのブログ記事で多少の攻略的な記事も載せておりますので合わせてご覧いただけると、テストプレイヤー冥利に尽きます。

www.inu-inu-yeti.com

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最後に、操作系の無茶な要望まで快く実装して頂いたハムスター様にこの場を借りて御礼申し上げます。誠にありがとうございました。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド上田 その6

上田の話題からは逸れますが、在籍中には何かと縁があった軽井沢のセガについて少々触れておきます。

 

上田から約40㎞、車を1時間程度走らせると日本を代表する避暑地、軽井沢に到着します。

軽井沢駅に面した場所には軽井沢プリンスショッピングプラザの敷地が広がっていますが、かつてこの中にもセガのゲームセンターが存在していました。

 

プリンスホテルセガは元々関係が深かったようで、品川プリンスホテル内では現在でもセガロケーションの営業が続いています。また苗場プリンスホテルではスキーシーズンになると期間限定でセガがホテル内にゲーム機を設置していたこともあったようです。

 

軽井沢も苗場同様のリゾート型店舗ですが、期間限定ではなくショッピングプラザ内のプリンスボウル建屋1階で通年営業されていました。

そのため他店同様に社員が店舗に常駐、アルバイトスタッフを雇用し店舗運営を行っていたのですが、夏休みのようなハイシーズンは店内にお客様が溢れる一方、閑散期の平日に訪れる方はまばら。ハイシーズンに合わせたスタッフ数を常時確保は出来ないため、私が上田へ赴任する以前から長期休暇になると営業所から社員がヘルプで軽井沢に入ってフロア業務に当たっていたようです。

 

そして夏休み期間中のある日、私は早番勤務で店をオープンさせた後に事務所で作業を行っていると、予告も無くエリアマネージャーの訪問。

上田の店舗スタッフが充分であることを確認すると「今から軽井沢へ行くぞ」と連れ出され、そのまま夜までヘルプをさせられたのが私にとって最初の軽井沢でした。

 

その後繁忙期となると度々ヘルプに向かうことになるのですが、上田のスタッフ運営が安定してからは、一部スタッフもローテーションで駆り出されるようになりました。当然交通費支給で本人了承の上行ってもらいましたが、冷静に考えれば随分と無茶なお願いをしていたものです。 

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(軽井沢・プリンスショッピングプラザ、フロアガイドより)

そして現在の施設案内を見ると、元々セガがあった場所にはナムコが入っているんですね。今回その事実を初めて知るに至りました。

合わせてセガが撤退していたことも知り得た訳ですが、予想される理由はあまり伝えるべき内容ではないと思われるためここでは触れません。ご了承をお願い申し上げます。

 

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結局セガワールド上田での赴任期間は3年半程度に及びました。これまでの店舗と比較して長期に渡ったため回顧録はその6まで掛かってしまいましたが、アルバイトスタッフや人間関係に恵まれたこともあり、これまでの勤務の集大成としてセガという会社の組織人としてのスタンスを守りながら店長としての色を出すことが出来た店舗だったと思います。そして2005年の秋、合わせて8年間勤めたセガを退職し現場を去ることになります。

 

リストラの時も含めて「辞めようかな」と思ったことは一度や二度ではありません。それは会社勤めをしている方であれば誰でも有ることと思います。

それが退職にまで至ったのは、その5で取り上げた店舗改装直後のイオンショッピングセンターオープンに伴う売上の低迷に後押しされてしまったせいではないかと感じています。

 

改装前にも近隣に競合店「アピナ上田インター店」がオープンし、商品構成で不利になった時がありましたが、運営努力で対応可能なことも多かったのでモチベーションが下がるということはありませんでした。

しかしイオンの時には人の流れが完全に変わってしまったため、私やスタッフの努力だけでは正直如何ともし難い状況でした。それが増築・改装直後のタイミングでやって来たため、多額のコストを掛けたことに対するプレッシャーが大きくなり、連日効果が薄い対応策を迫られることに耐えきれなくなってしまったんでしょう。まるで雪崩の前に無力な登山者のように。

 

深刻に考えず軽く受け流すことが出来れば違った道もあったんじゃないかと思いますが、セガの店舗という制約がある中においてゲームセンター運営に対する自分のポリシーを維持出来るのは上田レベルが限界で、それ以上となると会社から求められる店舗と自分の実現したい店舗のギャップに苦しむことになりそうかなと今となっては思うので、丁度良い引き際だったのではないかと感じています。

 

だた、四日市勤務時代に実施され、2回目は無いと思っていたリストラ実施に伴う割増退職金支給が私の退職後に再び実施されたと聞いて、そこまで耐えていれば良かったと非常に後悔しています。(ゲスい話)

 

これにてセガ勤務時代の回顧録は終了となります。長々とお付き合い頂きましてありがとうございました。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド上田 その5

その1で、2004年に店舗の改装を実施しており現在は改装後の姿であることを前振りしていましたが、今回はその改装時の話が中心となります。

 

1990年台からセガが郊外型店舗として全国展開していた「セガワールド」という店舗は、「2階建ての店舗で1階がファミリー・一般層向けのプライズゲームや大型筐体・プリクラ等、2階が固定客層向けビデオゲーム及びメダルゲームという構成で、店舗面積が250坪前後」というタイプが多く、2階にも入口があったという特徴はあるものの上田店もそのパッケージに近いものでした。

ただ、ダービーオーナーズクラブから始まった大型カード系ゲームやサテライトタイプのオンライン対応タイトルの台頭、またメダルゲームの大型化が進行するに連れ、言わば「セガワールド第一世代」である250坪程度の店舗では面積の不足が顕在化してきます。

そこで2000年頃になると、第一世代型で採算があまり良くない店舗の閉店を進める一方、300坪以上の面積を有する店舗を新規開店させるスクラップ&ビルドに加え、既存店の改装が進められるのですが、店舗面積不足に対する手当として上田では改装と同時に増築の工事が実施されました。

 

正確なスケジュールは記憶が曖昧なのですが、確か2004年のゴールデンウイークまで旧店舗で営業し一度閉店、1か月程度の増築及び改装期間を経て6月中旬に再オープンだったと思います。

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2020年7月25日撮影(以下写真は全て同一日撮影)

改装内容については、当時店長だった自分も当然色々と意見しています。

セガワールド第一世代型の店舗は、それまでの「ゲームセンターは暗くて入りにくい」という印象を払拭するため、店舗全体に渡って明るい内装に統一していることが殆どでした。

しかしこの頃になるとゲームセンターに対するマイナスイメージが減ってきたことに加え、敢えてフロアの照明を減らしたり間接照明を多用することで非日常間を演出する内装を当時台頭していた「ウェアハウス」や「ザ・サードプラネット」といったロケーションが採用し効果を上げていたこともあり、1階フロアはこれまでのコンセプトを踏襲するものの、2階については増床も伴うことから大きく雰囲気を変更することを選択しました。

 

上の写真は2階への階段踊り場から撮影していますが、2階部分の壁面は改装前は壁ではなく手摺となっており、2階から吹き抜け部分を見通すことができかつ外光が2階にも入る構造となっていました。ここを壁面とすることで1階と2階を分断し、また国道バイパス側へアピールするために壁面に装飾をするプランを主張することで現在のスタイルに決定したと記憶しています。

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そして現在の店舗では、上記写真のレンガ装飾が施されている柱より向こうが増床された部分となります。主にビデオゲーム系が設置されていることは増床オープン当時から変わっていません。設置されている筐体は随分と変わってしまいましたが。

 

実はこの部分、改装オープン当初は営業が出来ず1週間程度封鎖されていました。増床のため営業に供するには所轄署の確認許可が必要なのですがスケジュールが間に合わなかったため、やむを得ず元々のエリアのみで営業を開始したためです。

 

そうして6月に迎えた改装オープン。

あらかじめ新聞折り込み広告を行ってアピールしたのですが、集客のため開店時に広告持参で先着プレゼントを実施していました。その時配られた商品がこちら。

www.a-fromage.co.jp

こちらのチーズ工房にて作られたスイーツ「マスカルポーネシュー」を1日100個用意したのですが、生ものだけに事前に準備出来ないため、プレゼントのある日は朝8時に隣町まで30分程度車を走らせて商品を取りに行くのが自分の仕事でした。

ちなみにマスカルポーネシューはチーズと生クリームの濃厚な味わいで、その割に後味が残らないとても美味しいスイーツ。機会があれば是非食して頂きたい逸品です。(突然のグルメレポート)

 

そうした甲斐もあって、オープン時は増床部分が営業出来なかったにも関わらず前年比120%程度の売上を出し、疲労感の中にも手応えがあったことを良く覚えています。

 

ところが、増床部分も無事オープンし夏休み商戦本番に突入した8月、それまで順調に推移していた売上が突如と前年並みの数字に戻ってしまいます。

原因は市内にイオンの大型ショッピングセンターがオープンしたことでした。

ja.wikipedia.org

元々この場所にはショッピングセンターが存在していたのですが、2003年に建て替えにより閉店。再オープンがセガの改装から1か月後に重なったものです。

当時の商圏最大のショッピングセンターとなり、また上田市中心部から比較的近いためアクセスがセガワールドの場所よりはるかに良かったこともあり、オープン直後は特に週末の集客が目に見えて低下しました。

私が赴任してから固定客層の開拓を進めたとは言え、売上に占める割合は週末のファミリーや一般層に依る所が大きかったことも影響を際立たせてしましました。そりゃ行動範囲内に地域最大のショッピングセンターがオープンすれば普通はそちらへ出向きますよね…

 

その6へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド上田 その4

2003年、大きな予告も無くとあるキッズ用カードゲームが入荷します。

特に騒がれていたタイトルではなかったのですが、このゲームが追って記録的な大ヒットとなろうとは最初は全く想像していませんでした。

そのタイトルとは「甲虫王者ムシキング」です。

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画像はSEGA VOICE (https://sega.jp/fb/segavoice/050331/home.html) より転載

このブログのメイン読者層には馴染みが薄いタイトルだと思いますが、店長としてこのゲームの運営にかなり入れ込んだ経緯があるため、個別で取り上げることにしました。

 

機器導入においてプロモーションがあったわけではなく、またキッズ向けゲームのため筐体も小ぶりでアイキャッチで目立つのは真ん中にあるカードリーダーくらいのため、正直最初に店舗に導入したときはそれ程売上が期待できるタイトルとは思いませんでした。実際最初の頃は1台でデイリー20~30回程度のプレイ数で、キッズゲームにしては上出来かな?という程度。

ただ導入から時間が経過しレアカードの存在がクローズアップされてくるとプレイ数は寧ろ上昇傾向となり、家族連れのお子様がプレイしている光景が目立つようになってきます。

 

このゲーム、甲虫同士の勝敗をじゃんけんで決するという内容なのですが、対戦に勝利するためにはステータスの強いレアな甲虫カードを所持することに加え、わざカードを合わせて使用することでじゃんけんを少しでも有利にするという戦略性の部分も持ち合わせています。

ある日、店内を巡回している時に何気なくゲーム状況を見ていた私はその戦略性に気付き、「このゲーム、カードを集めてCPU戦させるだけでなく、お子様同士で対戦させたら盛り上がるのでは?」と直感し、面白半分でゲーム大会を実施してみたところ、初回にして30人程度の参加者が集まり驚いたものです。

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ムシキング公式大会参加景品 画像はヤフオクより転載)

人気が出てくることで、追って写真のような大会参加者向けの専用景品や、優勝者にプレゼントされる専用カードといったツールも用意されるのですが、自分が始めた頃はツールは何も無く、手製の賞状をお渡しする程度だったと思います。

それでもかなりの集客に繋がったことに手応えを感じた私は、参加履歴のある方に大会実施の度にDMを送ったり、観戦用の外部モニターを設置したりと集客や運営の改善を進め、また大会数を重ねて実況も板についてきたことも手伝い、仕舞には「ムシキング博士」と称して用意した白衣を着込み子供たちの前で実況していました。まだ当時はいろいろとパワーが有りましたね。

大会は最も多い時には80人近い参加があったと思います。その時は開始から終了まで4時間程度を要したため大会終了後はヘトヘトになって事務所で暫く突っ伏していました。

 

そしてゲームの人気が頂点に達してくると、全国のセガロケーションにてゲーム大会等のイベントが拡がってくることになります。その前から運営ノウハウを蓄積した私は上田店が比較的スタッフ数に余裕があったことも手伝い、長野県の他店でイベントを実施する際に引っ張られて行くようになりました。県内他店で大会を行う際の進行・実況役に始まり、夏季に上信越自動車道のハイウェイオアシス佐久平に設置された「ムシキングワールド」の設営手伝い、東京銀座の銀座博品館に「ムシキングミュージアム」が出来た時の視察など、店舗外で活動する時間が増えてくることになります。


また全国大会も実施され、各店舗予選→地域予選と駒を進めて行くのですが、長野県は北陸エリアに含まれたため地域決勝の場所は金沢。そこに自店から代表として出場する子の応援のために休みを利用して金沢まで向かったりしたものです。

 

このようにセガ在籍時末期は相当な時間と労力をこのゲームに割いていたんだなと思い返しています。

まだムシキングのブームが続いていた2005年に私はセガを退職し、そこでムシキングとの縁は切れてしまったのですが、当時お店で遊んでいたお子様達の殆どが成人となっているはずで、もう私のことなんか覚えていないだろうなあと思いながら時間の経過を痛感しております。

 

その5へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド上田 その3

私が赴任した当時は、その2で記載したように明らかにファミリー向けに寄せていたセガワールド上田でしたが、2階のビデオゲームコーナーにはあまり普通のセガワールドに設置されていなさそうなオールドタイトルがいくつか稼働していました。

 

そのタイトルは、契約社員及びスタッフの一人が許可の上基板を持ち込み稼働させていたもので、当時のセガ直営店舗ではまず見られない光景でした。前任店長はあまり関与していなかったようです。

そのスタッフが、現在上田市中心部でオールドゲーム中心のゲームセンター経営を行っている、と言えばピンと来る方もいらっしゃると思います。店名は敢えて伏せておきます。

 

オールド基板を持ち込み稼働させるような契約社員及びスタッフが、私の元スコアラーという素性を知ることにそれ程時間は掛かりませんでした。こちらから喋った記憶はないんですけどね。

その情報はスタッフを通じて、以前にプレイシティキャロット松本店にてスコアラー活動を行っていた上田在住のプレイヤーに伝わることとなり、彼の方から私に声を掛けて下さいました。これが今でも続いている松本勢との出会いになります。

当時は既に松本キャロットは閉店後だったため、店舗へ伺うことは叶いませんでしたが、松本組の皆様を紹介頂いてからは定期的に上田の面子と一緒に松本へ遊びに向かうようになります。

 

また、スコアアタックについても基板持ち込みが暗黙で許されていたため、上田のプレイヤーが当時スコアを狙っていた「セクシーパロディウス」を用意してもらい実際に店舗からアルカディア個人申請で全国トップが生まれたり、「式神の城2」を確保した後にはコンバータを付けて外部機器持ち込みで録画可能な環境を整えたりしました。今から思えば結構やりたい放題やっていました。

 

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(画像は(株)哲信クリエイトサイトより転載)

そして店舗から生まれた全国トップスコアタイトルがもう一つあります。それが「アウトラン2SP」で、2005年にハートアタックモードにて個人申請による全国トップが確認されています。

これにはバージョンアップ前の「アウトラン2」の頃から布石があります。

アウトラン2はリリース当時2台がセガワールド上田へ導入されましたが、初代アウトランタイトルホルダーの方を始めとして複数のガチプレイヤーにお集まり頂き、台アベレージ売上が全セガ導入店中2位という快挙を成し遂げます。

仕舞には他店で稼働していた2台も移設され計4台体制に。台アベレージ売上は下がってしまったものの移設前の店舗と比較すれば倍以上のアベレージを叩き出していました。ガチ勢のプレイを見た頭文字Dプレイヤーがこぞってアウトラン2もプレイし始めた光景が印象的で、「上手い方のプレイは相乗効果を引き出す」ということを実感したゲームタイトルでした。

 

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ハイテクエンタテイメントアーサー跡地 2020年7月23日撮影

また長野県に赴任する前に、オレンジペコ常連の伝手で飯山市のハイスコア集計店「ハイテクエンタテイメントアーサー」に遠征する機会がありオーナーと面識があったのですが、上田へ赴任して挨拶に向かい以後オフになると度々遊びに行くようになりました。豊橋四日市なら気晴らしに名古屋へ遊びに行くことは容易でしたが長野となるとそうはいかないため、いくら一人の気ままさが好きとはいえ店舗や地域の環境に慣れていない時期には飯山に行くことで随分と助けられた気がします。

 

このように、これまでのセガ在籍5年弱の期間で元スコアラーであったことが人間関係に影響したことはほぼ無かったのに対し、一転して上田ではそこから生まれた新たな縁がかなりありました。おかげでこれまでの人生で無縁な地域だったにも関わらずプライベートでは殆ど寂しい思いはせずに済んだと思います。

 

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コインスナックM&M跡地 2020年7月25日撮影

 

また三重勤務時のオフにどっぷりと嵌っていたパチスロは、上田へ異動後は行き付けホールを探そうと思慮しているうちに全く行かなくなりそのままフェードアウト。代わりにMJが全国対戦バージョンにアップグレードするとそちらにシフトし、オフの日のゲームセンター通いが復活しました。

初代MJの時は設置店舗数が少なく、オフの日に店長自ら自店でサテライトを占領する訳にもいかないので、長野・佐久・松本・穂高・辰野といった県内設置店だけではなく、群馬の高崎、山梨の双葉、新潟の十日町まで遠征して打ちに行くような生活。MJ2以降になると設置店も増えたため県外まで出向く必要はなくなりましたが、それでも自宅から車を30分程度走らせた場所にあった小県郡丸子町(当時)の「コインスナックM&M」に午前中から向かい、夕方まで遊ぶと近くの温浴施設に行って風呂と食事を済ませ帰るようなオフの過ごし方が増えました。結局は一人が苦にならなくなるんですね。

 

その4へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド上田 その2

店舗の客層については、ツタヤが併設されていたためセットで来店するファミリー層や社会人層が客層の多くを占めており、前任店長も自らバルーンアートを店先で行い店頭で配布するようなファミリー層向けの集客・サービス策を積極的に行っていたため、一般客層は比較的盤石な反面固定客層が弱いという印象を持った私は、固定客層の開拓を中心に取り組むことになります。

まず着手したことは、「製品をきちんとアピールすること」でした。

  

「ゲームセンターが製品であるゲーム機をアピールすること」は当然なのですが、スタッフが少ない店舗で日常業務に追われているとその当たり前を行う余裕が無くなったりします。

セガワールド上田の赴任当時の勤務スタッフに関する環境ですが、ここには赴任時に既に契約社員が2人在籍しており、日常業務の大半を契約社員に任せておける状態でした。スタッフの絶対数も当初はそこまで余裕はありませんでしたが、程なくして仕事に穴を開けがちだった1名が退職し、前後して採用したスタッフが定着してくれたお陰でスタッフの不足に悩まされることも殆ど無くなったため、集客策を色々と実施することが出来たのではないかと思います。

 

手始めに、地元の学生層が駅前のゲームコーナーにて対戦格闘ゲームに勤しんでいるという情報を入手したため、こちらへも足を運んで貰うべく基板もの新製品の入荷告知POP掲示や曜日別のクレジットサービスを実施します。

すると徐々に対戦格闘ゲームを遊ぶ客層が増加し、それなりの数字を残すようになってきました。

追って閉店となった長野市の店舗から女性契約社員か移籍してくるのですが、彼女が対戦格闘ゲームに造詣があったため、彼女に実施運営を任せて最終的には定期的にゲーム大会を開催するまでに至ります。

ギルティギアのレディース大会とかやってたな…異質の文化を目撃した気分でしたw

 

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(画像は以下サイトより転載 

頭文字Ⅾ:(株)哲信クリエイト

WCCFセガ公式 

MJ: パンフレットで見るアーケード探訪:セガ四人打ち麻雀 MJ | 電脳世界のひみつ基地

 

また、私が赴任した2002年は、2020年の現在においてもシリーズタイトルが継続している「頭文字D アーケードステージ」「ワールドクラブチャンピオンフットボール(WCCF)」「セガネットワーク対戦麻雀MJ」の初代作が登場した年でもあります。まだアーケードゲーム業界が非常に元気だった時代です。

 

どれも一時代を築いただけに、ただ設置しただけでも相応の売上を稼ぎ出すタイトルでしたが、少しでも差別化に繋げるべく以下のような施策を行っていました。

 

 ・頭文字D

ゲームの特性上、自然発生的にプレイヤー同士の対戦が盛り上がるのを受け、対戦大会を頻繁に実施しました。実況は全部自分が担当しましたが、最初は車種を覚えるのに苦労した記憶が蘇ります。

しまいには大会終了後のプレイヤー同士の飲み会に同席させて頂いたりもしました。私自身はこのゲーム1回もプレイしたことないんですけどね…

 

WCCF

ゲームの斬新さに対して、スターターパック購入の必要性などゲームを始めるにあたってのハードルが高い一面もあったため、チュートリアル的なスタートガイドを設置しようとネットを漁っていた所、当時のセガ心斎橋GIGO(大阪)で店内POPを専属で作成しているスタッフの方が開いているPOP作成請負のサイトを偶然発見。ガイドについて作成をお願いした所快くお引受け頂けました。先方もまさか現役のセガ店舗店長から依頼が来るとは想像していなかったと思います。

もちろん有償です。私の一存で行ったことなので経費ではなく自腹です。

セガを去った時に、そのPOPは筐体へ残して行ったため手元にはありません。1枚くらい控えを残しておけば良かったかなと今になって後悔しています。

 

・MJ

ダービーオーナーズクラブの改造から最初に設置された時には、まだオンライン対戦機能実装前の店内対戦しか出来ない代物で、ついているお客様はまばら。既にオンライン対戦を実装していた麻雀格闘俱楽部との差は歴然としていましたが、程なくネットワーク対戦Ver.にアップグレードした後は飛躍的に稼働が上昇しました。テストプレイ時に同卓者の店名が画面に表示された時には軽く感動したものです。

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(画像はセガMJ2サイトより転載)

現在も続いているMJシリーズはICカードを使用して個人情報を保存していますが、初代MJはダービーオーナーズクラブからの改造だったため磁気カードを使用していました。

店舗用のマニュアルを読むと、「大会モード」というのが存在し、そのモードで優勝すると上記画像のように磁気カード表面へ戦績を記載する機能があることを知った私は、それを生かすべく早速店内対戦大会を企画します。

この機能を使用したことのある店舗は殆ど存在しなかったのではないでしょうか。

 

センターモニターに参加者の手持ち牌がライブで映し出されてしまうので、センターモニターを切った上で対戦台を作成する際のモニター分波用キットを使用して映像を参加者からは見えない別モニターへ映し出し、キャラリーの方と画面をニヤニヤしながら見守る光景はなかなかシュールでした。盛り上げが必要なゲーム大会でキャラリーに対して黙るよう案内をしたのは後にも先にもMJの大会のみでした。

 

 

また、セガにおいてこれまで元スコアラーであることがお客との関わりを生むことはほぼ無かったのですが、上田ではとある理由で素性が割れたことにより生まれた縁があります。次回はその辺りの話を中心に記載したいと思います。

その3へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド上田 その1

私がセガへ入社した1997年当時、セガアミューズメント事業は当時のセガ・エンタープライゼス本体組織の一部であり、東海及び北陸の計6県の施設を運営する組織として名古屋市に「中部地区」が設けられていました。

 

それが2000年10月に、全国の施設を5地域に分割し各地域毎に管理運営を行う分社化が実施されます。

分割された5地域はそれぞれ「株式会社セガアミューズメント東日本/東京/東海/関西/西日本」として独立し、旧中部地区は「セガアミューズメント東海」として出発するのですが、他の地域と比較して管轄エリアが狭かったためか、旧西関東地区に属していた静岡県及び長野県についても、セガアミューズメント東海が管轄することとなります。

 

分社化当時セガワールド生桑に勤務していた私は、当然にしてセガアミューズメント東海所属となるわけですが、次の異動を命ぜられた店舗が、新たに東海のエリアとなった長野県の「セガワールド上田」でした。

 

私の前任店長がセガを退職することとなり、後任として私が赴任することとなったのですが、当時の社長が「あいつは一人で放っておいてもなんとかなるだろう」と考えていたことが私が人選された理由だったようです。

都心部に立地する店舗だと、周囲に別のセガ店舗もあるため社員間で交流したりする機会がありますが、長野県のような地方となると隣接するセガ店舗まで片道車で1時間以上とかがざらになります。

そうなると地域に縁のない社員は仕事がオフの日もアルバイトスタッフと遊ぶ位しかすることがなく、その環境に耐えられなくなって退職に至る場合が結構あったようですが、オフの日も一人で勝手に過ごしていた私はその心配はされていなかったようですw

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2020年7月25日撮影(以下写真は全て同一日撮影)

 

こちらも店舗は現役。生桑と同じく現在はセガワールド上田からセガ上田へと名称が変更されています。

 

店舗の目の前を走っている道路は国道19号上田バイパス。市街地からは離れており、中心部の上田駅からだと千曲川河岸段丘を徒歩で延々と登って約30分程度掛かり、店舗裏手から先は山に分け入るような場所に位置しています。

敷地にはセガの他に、ツタヤが同一建物で隣接。また現在リサイクルショップが入居している建屋には私が在籍していた当時はコートダジュールというカラオケ店でした。その他ローソンと中古ゴルフショップが立地しているのは当時から変化はありません。

 

店舗は2004年に増床及び改装工事が実施されており、現在は改装後の姿となっています。この改装には私も当時の店長として大いに関わっているため後述します。

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現在の1階フロア。プライズ、プリクラ及びキッズカードゲームコーナーが展開されています。以前は大型筐体タイトルや、初代三国志大戦のようなキラータイトルを設置していた時期もありましたが、現在は完全にファミリー向けにて統一されています。

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2階は改装前からビデオゲーム及びメダルゲーム中心。改装後も構成に変化はありませんが、大型筐体ものは現在は全て2階に設置されています。

 

既に改装後15年以上の歳月が流れているのですが、時間の経過の割には店内が綺麗に保たれている印象を持ちました。日々の清掃業務の賜物でしょうか。

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また、普通の2階建て建屋の店舗と異なる点として、2階にも入口が設けられています。

写真は2階入口を外から映したもので、入口前は駐車場となっています。丁度ツタヤのフロアの真上部分に当たります。

店舗裏手山側の傾斜がきつくなっていることを利用して、ツタヤの脇から坂道を伝って車で乗り入れられるようになっており、実質セガ専用の駐車場となっていました。2階設置のゲームタイトルが目的のお客様は最初からこちらに車を留め置く方が多かったようです。

 

その2へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド生桑 その3

さて店長としての職責ですが、これまでは複数社員が常駐する店舗だったため社員間で職務を割り振りしていたのに対し、セガワールド生桑では常駐社員は店長のみとなり、また契約社員も存在しなかったため、社員として必要とされる職務は全て自分が対応する必要がありました。

 

職務はおおよそ以下の内容に分類されます。

 

①金銭管理(集金業務、金融機関への入金、両替機対応)

②建物オーナーや近隣テナントとの折衝

➂スタッフ管理(シフト作成や人件費管理)

④機材(機械、基板、部品等)、在庫(景品等)管理

 

細かい業務を含めればもっと多様になりますが、概ね上記のカテゴリーに分類されるのではないかと思います。

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セガ製高額紙幣対応両替機 DP-22000(画像はヤフオクより転載)
 

①の金銭管理ですが、事故防止の観点からセガはアルバイトスタッフに金銭を極力触らせない方針だったので、社員が全て対応します。

 

集金は定期的に実施する必要があるため、社員1人勤務の店舗は基本的に長期の休暇は取れません。

 

両替機への金銭補充等はアルバイトが対応するゲームセンター運営会社もありますが、セガはスタッフが両替機を触れるようになるためにはアルバイトランクのステップアップが必要で、それには営業所長の面談を要するためそこまで到達している人数はさほど多くなく、結局は社員が対応していた店舗が圧倒的に多かったと思います。

この両替機対応が日常業務としては最も厄介で、勤務終了後やオフの日といった社員不在時にトラブルが発生した場合、お客様を待たせるわけにはいかないためスタッフでも扱える少額の両替金を用意してお客様へお渡しするのですが、最終的に社員が店舗へ出向いて両替機を復旧させなければなりません。

千円紙幣を百円硬貨へ両替するだけの機械のトラブルであれば、店内に他の両替機があるためそちらで代替してもらうのですが、万券や五千円紙幣対応の両替機は台数が少なく長時間停止させてしまうと影響が大きいため、トラブった場合はほぼ確実に携帯電話が鳴ります。何度呼び出されて店舗へ向かわざるを得なかったかはあまり考えたくありません。

 

両替機の内部は定期的に確認するのですが、退勤前やオフの前日は呼び出されることを防ぐため硬貨や紙幣の残量をチェック、特に排出口への紙幣つまりが最も多いトラブルのため、極端に皺が多い紙幣はあらかじめ取り除いたり、紙幣の量が多すぎても詰まる原因となるため需要を予測して適切な量を投入しておくといった努力が必要となります。それでも完全には防げないのですが。

 

また、時折現れる「両替金額が一致しない」との申し入れの対応は更に面倒なことになります。

紙幣→硬貨の両替では両替金差異の申し入れは殆ど発生しないのですが、高額紙幣両替の場合、「五千円紙幣を投入しているのに万券を投入したつもりの方」「高額紙幣を両替したのに硬貨しか受け取らず、千円紙幣を取り忘れた方」が定期的に現れます。

大抵は「お客様の勘違い、払い出し紙幣の取り忘れ」をご説明してお引き取り願うのですが、稀に納得行かないという方がいると、該当両替機の中身金銭を全て取り出し、管理帳簿上の両替機内投入金額と差異が無いかを確認します。両替なので内部の金額が変化することはありませんから(メダル貸出機兼用両替機の場合は当日の貸し出し売り上げを差し引いて確認)、確認の結果内部金額に変化がないことをお伝えしてお引き取り頂きます。

まだお客様の勘違いであれば良いのですが、詐欺行為でわざとクレームを付けてくる輩もいるため、面倒ですがトラブル時の両替機中身の確認は行わざるを得ないのです。

 

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2020年7月24日撮影

 

そして➂の「店舗スタッフ」に関する業務。

 

サービス業全般に言えることですが、社員だけでは日常の店舗業務は廻せないため、アルバイトスタッフの力を借りることになります。

限られた人件費枠の中でスタッフの希望を反映しつつ店舗勤務シフトを作成する...サービス業の現業を経験すれば誰もが通る道ではないかと思います。

在籍スタッフ人数と各スタッフの希望(勤務日数や給与額)が上手く嚙み合っていれば、シフト作成はある程度ルーティン作業に近くなり頭を悩ますことはありませんが、おおよそどの店舗もそこまで余裕のある人員を抱えている訳ではないため、人数、スタッフの希望のどちらかが狂うとたちまち人手不足に直面することとなります。

そうなるとスタッフの穴を社員が埋めなければならないため、公休が取得できない、開店から閉店までの通し勤務を強いられるといった状況が多発し社員が極度に疲弊してしまう光景が時折発生しており、何としてもそれだけは避けたいと思っていました。

 

生桑は総勢10名程度のスタッフで店舗を廻しており、学生スタッフの卒業時期などで一時的に不足することはあったもののスタッフが明らかに足りていないということはそれ程ありませんでした。

ゲームファンをある程度店舗に囲い込んでいると、その中で結構スタッフになってくれる方がいるので助かるんですよね。また採用したスタッフは大抵真面目に仕事に取り組んでくれたのでそこは恵まれていたと思います。

 

 

そうして初めての店長業務も大過なく2年が経過しました。

1年程度で異動を重ねる社員も多い中、2年は当時としては比較的長い在籍期間だったようです。ガルボと合わせて3年半程度過ごした三重県四日市市の次に赴任地として指定されたのは長野県上田市でした。

 

あれ?セガの東海地区は東海3県(愛知、岐阜、三重)および北陸3県(福井、石川、富山)だったのでは?

 

そこで長野行きを命ぜられた経緯を含め、次回からはセガにおけるの最後の店舗となる「セガワールド上田」勤務時代を取り上げます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド生桑 その2

店舗の客層としては、周囲にロードサイド店舗が林立しているもののセガ自体は実質ほぼ単独店舗だったため、ショッピングセンター内店舗のような「ついでに立ち寄った」という客層はそれほど多くなく、かつ中心市街地からも遠く付近に学校も少なかったため学生もそれほど多くはありませんでした。

 

一方周囲に競合店はほぼ無く、四日市ガルボも含めて大型店があった市南部へ行くには中心部の渋滞を抜けていく必要があったため、店舗近隣である四日市市北部や西部を中心とした固定客層が多くを占めていました。

その立地が幸いし、20年が経過した現在でも店舗が存続しているのではないかと思います。

 

一見さんや学生が少なかったため、プライズ機やプリクラの売上比率は平均的なセガワールドに比べると低く、反面ビデオゲームメダルゲームの比率が高い店舗でした。そのため基板もののビデオゲーム新作は比較的優先で割り当てられました。

当時はまだシューティングゲームが定期的に発売されていたため、入荷したサイヴァリアギガウイング2辺りを仕事のオフ時や勤務前にプレイしていたところ、「あそこの店長シューターだから」と当時の2chにカキコされたりしたものですw

 

またバーチャロンについては広域的に固定客が集まっていたため、後にスタッフとして採用したプレイヤーを中心にゲーム大会を実施したりもしました。

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2020年7月24日撮影

汎用ビデオゲーム筐体を一切設置していない店舗が多数を占める中、僅かに当時の面影を残すコーナーが設けられています。

あまり食指が動くタイトルはありませんでしたが…

 

これまで勤務した2店とは客層も比較的異なり、また店長という立場であったこともあり、ミスタードリラーに連射装置を付けてみたり、コナミ音ゲーが入荷出来ないため倉庫で眠っていたパカパカパッションスペシャルの基板を確保し、アストロシティ用専用コンパネが無いため営業所に談判してコンパネパーツを購入してもらい店舗に投入するなど、多少マニアックな方向にも食指を伸ばしたりしていました。

パカパカパッションの件など、プレイヤーの側から見れば専用コンパネが「付いていて当たり前」なのですが、当時のセガ店舗にはそれを理解する人間が少ないためクイズコンパネで稼働させたりすることを平気でやっていたんですよね。確かにボタン4つなのでプレイ出来ないことはないのですが、ゲームを知っている方から見ればクイズコンパネが付いている時点でコインを投入する意欲は湧かないでしょう。

 

結局は「分かる人間が店舗に勤務しているか否か」でビデオゲーム系の商品価値って大きく変わったりするのですが、そこに目を向けたとしても得られる売上の向上は正直微々たるものです。

反面、必要以上にマニア層が店舗に集まると一般客層を遠ざけてしまうこと、また限られた労力を振り分けるのであればプライズやメダルに振った方が売上向上の効果が大きいため、店舗運営側としてはどうしても対応が消極的になります。

店長という「店舗を預かる立場」からすれば数字に縛られるのは当然なので、元スコアラーとしてビデオゲームに注力をすることは叶わなかったのですが、他の一般客層と干渉しないように店舗内のゾーニングに配慮したり、メンテナンスに気を使ってみたりとささやかではありますがプレイ環境の向上を心掛けていたつもりではあります。

 

 

だた、三重県に勤務していた時は自分が最も「プレイヤーとして」アーケードゲームから離れていた時期だったのではないかと思います。

四日市ガルボに赴任した頃には既に名古屋のホームであったオレンジペコは閉店していたため、オフの日に名古屋へ遊びに行く最大の動機は元オレンジペコ常連との呑みかもしくはパチスロ。2000年夏まで三重県は全国で唯一パチスロが認可されていない県で、打つためには隣の愛知県まで足を運ぶしかなかったのです。

 

それが2000年夏になると、三重県に正式にパチスロが認可されます。

その時のお祭り騒ぎはもはや伝説級で、パチスロを知らない地元民のために高設定で設置された台を全国からスロプロが漁りに来るという状況が繰り広げられていました。対策で「三重県に在住していることを証明する書類」の提示をホールが求めると住民票まで移してしまう猛者も居たと聞きます。

 

そのお祭り騒ぎの最中に三重県に住んでいた私は、オフの日は朝から晩まで、仕事も早番の時は終了後に連日ホールに通うという生活を送っていました。そのためゲームは完全に二の次で他のゲームセンターへ顔を出すことも余りなかったため、元スコアラーという素性は全く悟られず、地元のプレイヤーとの交流もほぼありませんでした。そこは少々残念な点ではあります。

 

余談ですが、三重県のパチンコ店でもう一つ有名なのが、「大晦日から元旦にかけての深夜営業」で、これはパチスロ認可前から行われていました。

伊勢神宮へ向かう初詣客にトイレを提供するという名目で営業が許可されていると当時から伝え聞いており、パチンコ情報サイト等にもそのような記載がされていますが、本当の理由は定かではありません。

pachiseven.jp

一度大晦日の遅番終了後に覗きに行ったことがあるのですが、深夜のためアナウンスや音楽は一切流されていない店内で、満員の客が黙々と台に向き合っている光景はかなり異様でありました。正月でめでたいのに殆どの台が出てなくて客の目は一様に死んでいるという…

 

その3へ続きます。 

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド生桑 その1

豊橋ホリデイスクエア、四日市ガルボとセカンド社員として勤めること約2年半、丁度2000年に入った頃に初めて「店長」として赴任することになった店舗が今回から紹介する「セガワールド生桑(いくわ)」です。場所はガルボと同じく四日市市内ですが、市の南側にあったガルボに対して市の北西部に位置しており、同じ市内とは言え距離は結構離れていました。

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2020年7月24日撮影(以下写真は全て同一日撮影)

 

これまでの2店と違って現役の店舗です。

四日市市の中心から北西方向へ伸びる国道365号を車で15分程度進むと、現在は「おふろcafe湯守座」となっている「ユラックス」という温浴施設があり、その敷地に隣接しています。国道からは分かりにくく、店舗手前の県道を通らないと見つけにくい場所と思います。

付近にはスーパーやドラッグストア、飲食店等が連綿していますが、ショッピングセンターのようにまとまっている訳ではなくそれぞれが独立した店舗。セガも飲食店や消費者金融の自動契約機と敷地を同じくしていますがいずれも小規模で、郊外の店舗にありがちな複数のテナントが入居している施設ではなく、ほぼ単独に近い店舗となっています。

 

建屋は20年前と同一ですが、2002年に一度リニューアルが実施されています。私は改装前に別の店舗へ異動したのでこの改装には関わっていないのですが。

リニューアル直後の姿が記録されているブログがありました。

blog.goo.ne.jp

リニューアル時に建屋の1,2階全てがゲームセンターとなっていますが、改装前は2階フロアの南側半分はカラオケ店となっており、ゲームは1階及び2階の窓がある北側半分のみでした。

カラオケ店は建物のオーナーが直接運営していたためセガは無関係でしたが入口は正面で共通しており、店内階段を2階に上がると左右に分かれ、左側はセガのメダルコーナー、右側はカラオケのカウンターがある構造となっていました。リニューアル時にカラオケ店は撤去され、2階フロアも全てゲームフロアとして生まれ変わり現在の構造となっています。

その後セガのCI統一戦略により「セガワールド生桑」から「セガ生桑」に店名が変更され、現在の外装に落ち着いていますが、セガワールド時代のロゴやソニックの絵柄があった時の方が雰囲気が良かったんじゃないかと感じるのは決して私だけではないと思います。

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丁度階段からかつてカラオケ店だった場所を望みます。

カラオケ店が存在していた時の店舗面積がおおよそ当時のセガワールドにおける標準的な大きさだったのですが、元カラオケ店部分をゲームエリアとしたことで比較的大きな面積の店舗となりました。

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現在の1階プライズコーナー。1階はプライズの他にプリクラ、音ゲー全般及びスターホース以外のメダルゲームが設置されています。

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2階全景。2階はビデオゲーム、ネットワーク系専用筐体、そしてスターホースという構成。現在はフロアの雰囲気で設置機種を分けているようです。

 

私が赴任していた時期は改装前のため2階は現在の半分の面積しかなく、2階はメダルゲームにて完全に固定し、プライズ、プリクラ、ビデオ、大型筐体といった他のゲーム機は全て1階に設置するという構成でした。

しかし店舗外観写真を見て頂きたいのですが、店舗正面が西向きであり、午後から夕方にかけて西日が直撃するため画面もののゲーム機をガラスに面した場所に設置することが難しく、店内をゾーニングするのにかなり苦慮した覚えがあります。それに比べると現在の店内はスペースを持て余し気味な気もしますね。

 

その2へ続きます。