小人閑居して不善を為す chapter3

一介のプレイヤーからハイスコアラー、そしてゲームセンターの中の人を経てアーケードゲームと関わること40年以上、その普通とはかなり異なるゲーマー人生を回顧するべく記事を綴っております。

ゲームセンター回顧録 過去の栄光を求めて 序章

ゲーム業界もかれこれ40年以上の歴史を持つようになり、最近は業界の歴史や推移、回顧録をコンテンツとしてアーカイブする動きが増えつつあるように思います。

例えば、特にアーケード業界の黎明期から発展期を中心とした記事でアプローチしているゲーム文化保存研究所や…

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メーカーも自社タイトルの歴史や逸話をコンテンツとして公開する動きが出て来ました。

アソビモット | バンダイナムコエンターテインメント公式サイト

セガ・アーケードゲームヒストリー | 株式会社セガ・インタラクティブ

 

ただ、そこで語られる内容はもっぱらゲームそのもの、開発者、キャラクターや演出、そしてプレイヤーであり、ゲームセンターという空間にスポットを当てた記事は、一部の有名店に関するものを除いて殆ど存在しないのではないでしょうか。

また、昔あれほど入り浸っていたゲームセンターも着々と姿を消し、今のように簡単に画像を残せない時代でわざわざ普段のゲームセンターの光景を記録した話題や画像は皆無に等しい中、せめて自身が見聞きした範囲でゲーセンにまつわる話を残しておきたいものです。

 

ただ、ゲーセンにまつわる話も時期や場所によって内容の捉え方に違いが生ずる可能性があるため、最初に、私のゲーム遍歴を記しておこうかと思います。

 

1972年埼玉県大宮市(現在のさいたま市大宮区)産まれ

物心付いた時には既にゲームをやっていたため、初めてプレイしたゲームは不明。おそらく家族旅行で泊まった宿泊施設のゲームコーナーあたりが最初と思われる。記憶として確実に残っているゲームで最も古いのはギャラクシアン。小学校時代は近所の駄菓子屋や、大宮駅付近のまだ子供でも近寄れる範囲のゲーセンで遊ぶ。

 

1983年に、親の転勤で愛知県豊田市へ引っ越し。

中学校から電車通学を開始するが、ゲームを一緒に遊ぶ友人からゲーメストやメーカー直営店の存在を教えられ、ゲームへの接し方と行動範囲が一気に変化する。

名古屋市のゲーセンにも足を運ぶようになり、1年浪人した1990年はイエローハットを中心とした名古屋駅界隈のゲーセンがホームグラウンドとなる。

 

1991年、なんとか大学に合格し埼玉へ戻る。

当初は通学途中の池袋プレイランドラスベガスをホームゲーセンにしていたが、神田でバイトを始めたことでジョイランドタロー→ハイテクノーベル神保町とホームが推移。

1992年にはオープンしたハイテクランドセガシントク(現セガ秋葉原1号館)のオープニングスタッフとして半年ほど働いた経緯あり。その後ノーベルのスタッフとなり、大学卒業まで勤め上げる。

 

1995年に大学卒業。新卒で入社した会社からは当然のように名古屋勤務を命ぜられ、再び愛知県へ戻ることとなる。

当初はイエローハット中心で出入りしていたが、程なくオレンジペコをホームとして活動するように。ただこの頃からゲームよりもパチンコや呑みの方がウエイトが高くなってくる。

 

1997年9月、名古屋で募集していたセガの地域社員に唐突に応募し、セガに転職する。

ここから約8年は、バイトではなく社員として店舗運営に関わることとなる。ちなみに新卒の時はナムコの会社案内取り寄せた程度でゲーム業界には全く就職する意思は無かった。

勤務履歴は、愛知県豊橋市(1年)→三重県四日市市(4年半)→長野県上田市(2年半)

毎日仕事としてゲーセンに出入りはするが、スコア活動に直接関与することはほとんど無くなってしまった。

 

2005年9月、セガを退職し、埼玉へと再び戻る。

丁度その頃はアーケードのオンライン麻雀に嵌っている時期で、ゲーセンに行ってもレバーとボタンを触らない日々が続いていた。

ingressを熱心にやっていた時期も有ったが、5年位前から空いた時間でゲーセンに再び足を運び、昔クリアまでプレイできなかったタイトルを中心にレバーとボタンに触れる日々を送っている。

 

プレイヤーだったり、アルバイトだったり、運営サイドだったり。

ゲームの時流には背を向けつつ、時には流行りものを追いかけ、稀にスマホゲームに手を出したりしたものの、一貫して業務用ゲーム及びゲームセンターと過ごした40年余の備忘録をこれから書き留めます。