店舗として過酷な環境にあったセガワールド四日市ガルボですが、更に当時のセガという会社の情勢が追い打ちを掛けることになります。
元々この「四日市ガルボ」という施設そのものが、「テーマパーク事業」というお世辞にも成功したとは言い難いプロジェクトの副産物であり、そこで働く社員やスタッフはその尻拭いをさせられている格好ではありましたが、加えて当時の家庭用ゲーム戦線でプレイステーションの後塵を拝していたセガが繰り出したこのハードの影響を受けることになります。
(画像は「セガハード大百科」から転載)
そう、1998年に販売された「ドリームキャスト」、セガが最後にリリースした家庭用ハードウェアです。
私が四日市へ赴任したのが1998年秋頃なので、その数か月後には発売が開始されます。セガのアンテナショップとしてゲームセンターにおいても各種販売促進ツールが提供されました。
しかし、アーケードゲームメインのブログのため詳細は割愛しますがその結果は知られている通り惨憺たるものとなり、セガ本体は1998年3月期から赤字決済へ転落。その影響はコンシューマーとは関係ないゲームセンターの現場へも容赦なく襲い掛かってきました。
1999年に入り、店舗社員に人事部から通知か来ます。
内容は「希望退職募集のお知らせ」と、それに付する割増退職金支給要件、及び退職後のキャリア形成支援プログラムであり、かつその申し込みについて所属上長の許可は必要ないというものでした。とどのつまりリストラです。
当時の私は「エリア社員」という立場でした。セガの各地域単位で採用され、地域外への転勤がない代わりに契約は年単位で毎年更新、かつ退職金は支給されないというもの。しかしながら今回の希望退職希望者はエリア社員に対しても正社員同様勤務年数に応じた割増退職金を支給するという破格のもので、まだ転職して2年程度だった私も正直応募することを真剣に考えました。
それでも最終的に応募しなかったのは、その頃丁度店長が交替となり、新店長の下で少しでも店舗の現状を改善する方向で意思統一をしたことが大きかったのですが、結局は4人在籍した社員のうち店長と私以外の2人は希望退職に応募してセガを去ることになります。
代わりに赴任してきたのはその年の新入社員2名。セガ本社採用で期待と共に入社してきたこの2人には、いきなり酷な環境で仕事をさせることになってしまいました。会社の事情とは言え不憫に思わざるを得ません。
余談ですが、会社業績が芳しくない中、賞与としてドリームキャスト本体が「現物支給」されたことがあります。
家ではあまりゲームをやらない派だったので貰った直後に兄へ渡してしまいましたが、斑鳩くらいは買って遊べば良かったかな、と後に少々後悔しました。
(ダービーオーナーズクラブ筐体 SEGA VOICE より転載)
さて、色々と試練であった1998~1999年ですが、1999年後半に入ると「ダービーオーナーズクラブ」がヒットし店舗の売上向上に寄与。景品の不良在庫処理も進行し、ゲームセンター側の懸案は徐々にですが解消しつつありました。
そしてカラオケについては効率の悪かった週末の深夜営業時間を短縮、明け方までの勤務が無くなったことで社員の負担は大きく軽減されることとなります。
また、テーマパークとしての営業終了後に倉庫代わりとなっていた元2階フロアが唯一一般に開放されたイベントがあります。当時のねとらぼ記事がまだ残っていました。
大御所系漫画家の原画展で、運営について特に店舗で協力をした覚えがないことから、持ち込み企画だったのだろうと思います。ポツポツと入場はありましたが盛況とまでは行かなかったようで、その後私が知り得る範囲では2階を使用したイベントは実施されませんでした。
色々と紆余曲折があったセガワールド四日市ガルボにおける勤務ですが、結局ここで約1年半を過ごすこととなります。そして次の店舗へは遂に店長として異動を命じられることとなります。
場所は同じ四日市市内に位置していた「セガワールド生桑(いくわ)」でした。
その後四日市ガルボはセガカラ屋の閉店等を経て、最終的に2008年2月まで営業が続いていたようです。閉店後建屋は家具のアウトレットショップとなっていました。
何故か建屋のエレベータだけを撮影した動画を発見。
確かにこんなエレベータあったわ!実質倉庫である2階からの物品運び出しや、同じく2階にあった事務所、従業員休憩所からの移動にしか使用されていませんでしたが。