小人閑居して不善を為す chapter3

一介のプレイヤーからハイスコアラー、そしてゲームセンターの中の人を経てアーケードゲームと関わること40年以上、その普通とはかなり異なるゲーマー人生を回顧するべく記事を綴っております。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド生桑 その2

店舗の客層としては、周囲にロードサイド店舗が林立しているもののセガ自体は実質ほぼ単独店舗だったため、ショッピングセンター内店舗のような「ついでに立ち寄った」という客層はそれほど多くなく、かつ中心市街地からも遠く付近に学校も少なかったため学生もそれほど多くはありませんでした。

 

一方周囲に競合店はほぼ無く、四日市ガルボも含めて大型店があった市南部へ行くには中心部の渋滞を抜けていく必要があったため、店舗近隣である四日市市北部や西部を中心とした固定客層が多くを占めていました。

その立地が幸いし、20年が経過した現在でも店舗が存続しているのではないかと思います。

 

一見さんや学生が少なかったため、プライズ機やプリクラの売上比率は平均的なセガワールドに比べると低く、反面ビデオゲームメダルゲームの比率が高い店舗でした。そのため基板もののビデオゲーム新作は比較的優先で割り当てられました。

当時はまだシューティングゲームが定期的に発売されていたため、入荷したサイヴァリアギガウイング2辺りを仕事のオフ時や勤務前にプレイしていたところ、「あそこの店長シューターだから」と当時の2chにカキコされたりしたものですw

 

またバーチャロンについては広域的に固定客が集まっていたため、後にスタッフとして採用したプレイヤーを中心にゲーム大会を実施したりもしました。

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2020年7月24日撮影

汎用ビデオゲーム筐体を一切設置していない店舗が多数を占める中、僅かに当時の面影を残すコーナーが設けられています。

あまり食指が動くタイトルはありませんでしたが…

 

これまで勤務した2店とは客層も比較的異なり、また店長という立場であったこともあり、ミスタードリラーに連射装置を付けてみたり、コナミ音ゲーが入荷出来ないため倉庫で眠っていたパカパカパッションスペシャルの基板を確保し、アストロシティ用専用コンパネが無いため営業所に談判してコンパネパーツを購入してもらい店舗に投入するなど、多少マニアックな方向にも食指を伸ばしたりしていました。

パカパカパッションの件など、プレイヤーの側から見れば専用コンパネが「付いていて当たり前」なのですが、当時のセガ店舗にはそれを理解する人間が少ないためクイズコンパネで稼働させたりすることを平気でやっていたんですよね。確かにボタン4つなのでプレイ出来ないことはないのですが、ゲームを知っている方から見ればクイズコンパネが付いている時点でコインを投入する意欲は湧かないでしょう。

 

結局は「分かる人間が店舗に勤務しているか否か」でビデオゲーム系の商品価値って大きく変わったりするのですが、そこに目を向けたとしても得られる売上の向上は正直微々たるものです。

反面、必要以上にマニア層が店舗に集まると一般客層を遠ざけてしまうこと、また限られた労力を振り分けるのであればプライズやメダルに振った方が売上向上の効果が大きいため、店舗運営側としてはどうしても対応が消極的になります。

店長という「店舗を預かる立場」からすれば数字に縛られるのは当然なので、元スコアラーとしてビデオゲームに注力をすることは叶わなかったのですが、他の一般客層と干渉しないように店舗内のゾーニングに配慮したり、メンテナンスに気を使ってみたりとささやかではありますがプレイ環境の向上を心掛けていたつもりではあります。

 

 

だた、三重県に勤務していた時は自分が最も「プレイヤーとして」アーケードゲームから離れていた時期だったのではないかと思います。

四日市ガルボに赴任した頃には既に名古屋のホームであったオレンジペコは閉店していたため、オフの日に名古屋へ遊びに行く最大の動機は元オレンジペコ常連との呑みかもしくはパチスロ。2000年夏まで三重県は全国で唯一パチスロが認可されていない県で、打つためには隣の愛知県まで足を運ぶしかなかったのです。

 

それが2000年夏になると、三重県に正式にパチスロが認可されます。

その時のお祭り騒ぎはもはや伝説級で、パチスロを知らない地元民のために高設定で設置された台を全国からスロプロが漁りに来るという状況が繰り広げられていました。対策で「三重県に在住していることを証明する書類」の提示をホールが求めると住民票まで移してしまう猛者も居たと聞きます。

 

そのお祭り騒ぎの最中に三重県に住んでいた私は、オフの日は朝から晩まで、仕事も早番の時は終了後に連日ホールに通うという生活を送っていました。そのためゲームは完全に二の次で他のゲームセンターへ顔を出すことも余りなかったため、元スコアラーという素性は全く悟られず、地元のプレイヤーとの交流もほぼありませんでした。そこは少々残念な点ではあります。

 

余談ですが、三重県のパチンコ店でもう一つ有名なのが、「大晦日から元旦にかけての深夜営業」で、これはパチスロ認可前から行われていました。

伊勢神宮へ向かう初詣客にトイレを提供するという名目で営業が許可されていると当時から伝え聞いており、パチンコ情報サイト等にもそのような記載がされていますが、本当の理由は定かではありません。

pachiseven.jp

一度大晦日の遅番終了後に覗きに行ったことがあるのですが、深夜のためアナウンスや音楽は一切流されていない店内で、満員の客が黙々と台に向き合っている光景はかなり異様でありました。正月でめでたいのに殆どの台が出てなくて客の目は一様に死んでいるという…

 

その3へ続きます。