ゲーメスト1989年12月号(通算第39号)のハイスコア集計店マップとなります。
掲載店総数は94となり先月比-3と微減。新規掲載店が1店追加されています。
・セガ系
(ゲーメスト 1989年12月号より)
大阪南部のハイスコア有力店としては、1990年代に入ると阪和線杉本町の「プレイシティNASA杉本町」が有名になりますが、その前にはこちら藤井寺のハイテクセガが全国トップをよく輩出していた印象があります。
以下スコア欄となります。
(ゲーメスト 1989年12月号より)
ハイスコア伝言板コーナーのウィルトークタイトー高松店の欄に「遠征客が出した点数申告を受け付けずに地元客優先で誌面申請した」という趣旨の行為の是非について問われていますが、これもスコア集計初期に時折話題となっていました。
申告したのに地元民ではないという理由だけで却下されるのは申告したプレイヤーからすればたまったものではなく、そもそも地元客ではないとどのように判断されるのかと考えると、地元優先ではなく実質常連優先だったのでは?という話に繋がるため、店舗間で情報共有が広まってくるとこの手の話は店舗に対する評価として共有されていたのではないかと思います。
誌面でトップを競う上でハイスコア集計は「競技」になる訳ですが、常連を確保するための「手段」としてハイスコア掲載を行っていた店舗にとっては競技性よりも集客が重要となるため、その見解の相違がこのような事態を産んでいたと想定されます。まあ結果的に常連以外の申請を認めない店舗は掲載店から早々に姿を消していたのではないでしょうか。
続いてトピック店舗です。
一時は横浜市の代表的スコア掲載店として名を馳せた「プレイシャトー」をピックアップします。
(ゲーメスト 1986年9月号より)
2022年2月12日撮影
横浜市随一の繁華街である伊勢佐木町通りに面したハイスコア掲載店は、ベーマガには「プレイシティキャロット伊勢佐木町店」「ビデオインイセザキ」の2店が登場していますが、ゲーメストでは上記2店のスコアは掲載されずこちらの「プレイシャトー」が唯一となりました。ベーマガでは1986年4月号から掲載が開始されていましたが、ゲーメストでは少々遅れて第2号である1986年9月号から掲載がスタートしました。
(マイコンベーシックマガジン 1986年4月号より)
1985年の住宅地図では「泰光ビル」の2階に店舗名を確認出来ます。
現在の写真のビルには表記や銘板を確認出来なかったのですが、建て替えはされておらず泰光ビルのままであることを不動産情報から確認しています。撮影時は2階に上る階段は封鎖されており、また1階はテナントが撤退した状態で、入口や看板の形状から直近ではカラオケ店だったと判断しています。
この場所は関内駅方面から伊勢佐木町モールを10分程度進む必要があり、到達する前に上記2店の集計店や他のゲームセンターの前を通過することとなります。奥まった場所且つビルの2階という立地は必ずしも有利ではなかったと思われますが、その分プレイ代金を50円メインにしたり、ハイスコア集計やゲームグッズの販売を行うなどゲームファン層の集客に積極的だったことがゲーメストの横浜シールハイクの記事から確認出来ます。
(ゲーメスト 1987年1月号より)
またゲーメストやベーマガのハイスコアコーナー担当者、スコアラーを交えた「ハイスコア座談会」の会場となっていました。ゲーメスト・ベーマガ共にその際の様子や討論の内容が記載されています。
(ゲーメスト 1987年8月号より)
(マイコンベーシックマガジン 1987年7月号より)
ベーマガの記事内に記されていますが、討論会の提案者が店舗の社長であったということに当時のお店の方向性が現れています。
ベーマガにてハイスコア集計が開始され、追ってゲーメストも創刊され軌道に乗りつつあった当時、どちらにもスコアを掲載していた店舗として主要顧客であったゲームファンやスコアラーに配慮しつつも、長時間プレイや永久パターンの使用といった店舗の売上に直結する問題とも向き合う必要があるため。スコアを管理するベーマガ、ゲーメストの担当者から方針を明示してほしいという意思表示だったのではないでしょうか。もしハイスコアが「なんでもあり」というスタンスであれば店舗としてスコア集計を続ける価値はない、と思われていたのかもしれません。
実際にはハイスコア集計という競技性を担保するため、「設定は工場出荷時とする」「永久パターン発覚の場合は集計打ち切り」と言った現在まで続く普遍的なルールが確立していくことになります。
しかし「月1回実施予定」との記述がある座談会がこの後行われたという形跡はありませんでした。騒がしいゲームセンター店内で討論会を行うということに無理があったのかもしれせんが、「あまり活発な意見が出なかった」とあるように殆どが10代のプレイヤーにとってはまだテーマが重かったのかもしれません。皆若かったということですね…。
こうした店舗の活動や運営方針もあって、プレイシャトーは80年台後半の横浜の代表的ハイスコア集計店として全国トップスコアも度々輩出される店舗となります。1987年12月号の時点でゲーメストの全国トップ☆数は9個を数えています。(最終は23個)
1987年末には隣の川崎市に姉妹店がオープンしているようです。しかしこちらは掲載店とはなりませんでした。
(マイコンベーシックマガジン 1988年3月号より)
ただこの頃からゲームファンに対するアピールは徐々にトーンダウンしていたようです。
ゲーメスト1987年3月号以外でベーマガも含めて店舗欄を欠いたことがなかったのですが、ベーマガは1990年2月号、ゲーメストは同3月号を最後に姿を消しました。ほぼ同時であることからスコアの集計掲載自体を中止したと考えられます。ハイスコア集計について熱弁を振るっていた社長が交替したのか運営方針が変わってしまったのかもしれませんが、こういう意欲的なお店はもっと大事にしなければならなかったのでは、と今更ながらに思うのです。