ゲーメスト1990年4月号(通算第43号)のハイスコア集計店マップとなります。
総掲載店舗数は先月から変化なく98のまま、今月は新規掲載もありません。
以下スコア欄となります。
(ゲーメスト 1990年4月号より)
80年台後半のアーケードゲームシーンを語るにおいて外すことが出来ない横スクロールシューティング御三家の後継3作がいずれも期待値以下の結果となってしまった中、ヒットゲームのトップに躍り出たのはカプコンの「ファイナルファイト」です。
1989年がテトリスの年であるならば、1990年はファイナルファイトの年となりました。
また、テトリスの長期に渡ってのヒット継続、そして一時代を作ったシューティングゲーム代表作の後継タイトルが全てファイナルファイトの人気に敵わなかったことは、80年台においてゲームセンターの花形機種であったシューティングゲームがその座を譲る時が来たことの証左でもありました。
一方、動向が少なかったスコア掲載店について今号から動きがあります。
(ゲーメスト 1990年4月号より)
この頃はゲーメスト、ベーマガ共にほぼ掲載店の枠が一杯となっており、新たに掲載を希望する店舗は多数あったようですがいずれも要望には応えられない状況となっていたようです。
新規掲載希望店舗に対して特段の動きを示さなかったベーマガに対し、ゲーメストは集計店の入れ替えを予め誌面上で告知する方法を取ります。
実際に50号でかなりの数の新規掲載店が現れるのですが、この改定計画についてはその内容を追跡して行きたいと思います。
続いてトピック店舗へ移ります。
神奈川県の初期掲載店から「小野塚商店」及び「インベーダーハウストップ」の2店をピックアップします。
・小野塚商店
(ゲーメスト 1986年9月号より)
2022年7月31日撮影
・インベーダーハウストップ
(ゲーメスト 1987年1月号より)
2022年3月10日撮影
80年台にアーケードゲームをプレイしていた方々にとって、雑貨店や駄菓子屋の店先にゲーム機が設置されていたいわゆる「駄菓子屋ゲーセン」は非常にポピュラーだったと思います。
その殆どはお店の軒先に数台設定されたアップライト筐体や、多くとも10台未満のゲーム機が設置されているというものでしたが、儲かったからなのか店内の一部をゲーム機設置スペースとして専業ゲームセンターに近い形にしていたお店もありました。
横浜市磯子区の「小野塚商店」もそのような店舗の一つだったようですが、ハイスコア集計店として誌面に店舗名を掲載する所まで至った稀有な事例です。
付近に駅は無く、最も近い根岸線根岸駅からでも徒歩で20分以上は掛かると思われます。高校以上の学校施設も付近に無いことから完全に地元志向で、店の向かいに市営プールがあることから夏場はプールとセットで遊びに来るお子様が多かったのかもしれません。
地図上の場所は残念ながら現在は更地となっていました。
残されているポストに記載されている住所が店舗と一致したため、場所は間違いないと思われますが、住宅地図の建物の形と現在の跡地の形状が一致しないようにも見えます。
残っているコンクリートやブロック塀の雰囲気から、写真で車が3台止まっている箇所に店舗があったのではないかと推察します。
(ゲーメスト 1987年1月号より)
早い段階から誌面にスコアを掲載していたこともあってかゲーメストとの関係が深いお店だったようで、誌面の横浜シールハイクでも店舗が取り上げられており僅かですが当時の店舗外観や様子を窺い知ることが出来ます。また別の号では店長のインタビュー記事が掲載されたこともありました。
1988年まではコンスタントに誌面にスコアが掲載されていましたが、1989年になると掲載される機会が大幅に減っていきます。この頃になると街の駄菓子屋がスコア掲載を続ける意義が乏しくなってきたのかもしれません。それでも1990年5月号まで掲載は継続されました。
もう一方の「インベーダーハウストップ」は藤沢市の湘南台駅が最寄です。もともと通っていた小田急江ノ島線に加えて現在は横浜市営地下鉄や相鉄いずみ野線が開通し、慶応大学SFCキャンパスも立地して藤沢市北部のターミナルを形成していますが、1987年当時は小田急しか通っておらず現在とは全く光景が異なっていたのではないかと思われます。
跡地は駅東口を出て徒歩10分程度の場所となります。
当時の住宅地図でも存在が確認出来ました。
周囲は住宅地で、当時の住宅地図においてもお店は単独ではなく店舗兼住宅のように表記されています。現在も写真のように住宅となっていますが、1階の道路に面したシャッター上部に不自然な看板跡のようなものが存在するため、この場所で営業がされていたものの営業終了後に看板だけがそのまま残されているなのではないかと推察します。
掲載は1987年1月からスタートしますが、3月号掲載後に4,5月号と抜け、同年6月号の掲載を最後に姿を消しています。