オレンジペコはその3の写真の建物の1階、間口は狭いものの奥行きが長い物件で、店内はフラットでしたがキャノン最前線の当初の姿に近かったのではないでしょうか。
筐体台数は50台程度で、私が通い始めた1997年頃は入口にバーチャロンのツイン筐体があった以外はほぼ基板もので構成されており、コナミドーミーシアター筐体やアイレムのマドンナ筐体を中心に設置されていました。
コナミドーミーシアター汎用筐体パンフレット
すぐにウインディ筐体に移行したみたいであまり現存してないようです。
当時ピークは過ぎていたとは言えまだ対戦格闘ゲームがゲームセンターの中心商品でしたが、あまり対戦系ゲームに力点は置いておらず、結果あまり騒がしくない店舗になったためじっくりと腰を据えてプレイしたいスコアラーには良い環境だったのではないかと思います。
また、ハードウェアに明るい店員氏がいたため、連射装置等の改造について充実していたこともプラスに作用していました。
さて、この頃の名古屋市内のスコアラー御用達店舗と言うと、イエローハットは大きくその地位を低下させむしろ隣のトンガ王国の方が主流となりつつありました。
同時に、愛知県全域を含めた東海地方のハイスコアのフロントラインは、岐阜にあった「アイリン夢空間」にシフトしており、以前にイエローハットやキャノン最前線のスコア欄にて見かけたスコアラーのお名前をアイリン夢空間で見つけることが増えていたのですが、岐阜は正直遠かったため、アイリンまで向かっていた元々のキャノン常連層の一部や、近隣の大学に通う学生層を中心としてオレンジペコに新たな勢力が出来ていたのではないかと思います。
メンバーには、後にバーチャファイター界で押しも押されぬ有名プレイヤーになるホームステイアキラ君がおり、当時からバトルガレッガや怒首領蜂のプレイで大物の片鱗を見せていましたが、彼以外ではパズルボブル2、対戦とっかえだま、マジカルドロップ3といったパズル系やクイズゲームに強い面子が揃っていたため、特に90年代後半以降の名古屋のスコアラーに「パズル、クイズ系」のイメージを持たれている方が多いのではないでしょうか。
どちらかというとハイスコア的にはニッチ分野で強かった店舗でしたが、ハイテクノーベル時代からニッチゲームを主戦場としてきた私にとっては、その波長が丁度良かったのかもしれません。
その5へ続きます。