小人閑居して不善を為す chapter3

一介のプレイヤーからハイスコアラー、そしてゲームセンターの中の人を経てアーケードゲームと関わること40年以上、その普通とはかなり異なるゲーマー人生を回顧するべく記事を綴っております。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 ハイテクランドセガシントク その1

ブログの冒頭説明書きにも記載しておりますが、私にはゲームセンターの中の人だった時期があります。1997年から2005年までのおおよそ8年間の間、セガ社員としてゲームセンター店舗運営職に従事いたしておりました。

 

ここから暫くは、そのセガ勤め時代の話にお付き合い頂ければと存じます。

 

東京の大学を卒業し、就職で名古屋に戻ったのが1995年、最初の会社を3年弱にて退職しセガに移ったのが1997年なのですが、実はその前に布石があります。

 

時は1992年。

当時大学2年生の私は神田淡路町付近でゲームセンターではないアルバイトを行っており、バイト先近くの「ハイテクノーベル神保町」をホームゲーセンとし、バイトの帰りは最寄の秋葉原駅から電車に乗って帰る生活を送っていました。

 

そのバイト帰りに偶々見つけたのか、ハイテクノーベル神保町の常連経由から情報を得たのか経緯ははっきりとは覚えていませんが、秋葉原に新規オープンするゲームセンタースタッフ募集に応募することになります。その店舗が現在も営業を続けている「秋葉原セガ1号館」、当時の「ハイテクランドセガシントク」でした。

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 2020年9月3日撮影

blog.livedoor.jp

上記「秋葉原史記事」ブログ内に秋葉原セガ店舗の歴史が刻まれており、「ハイテクランドセガシントク」はもともとこの建屋のオーナーで、この場所で家電量販店を営んでいた「シントク電気」とセガがゲームセンターの共同経営を開始したことがルーツとなっています。

 

当時のセガ店舗は、「ハイテクセガ〇〇」という名称と、「ハイテクランドセガ〇〇」という名称が混在していましたが、「ハイテクセガ」はセガが建物と賃貸契約を結んで営業する純然たるセガ直営店舗で、〇〇は場所を表していることが多い一方、「ハイテクランドセガ」の場合は店舗オーナーが別に存在するセガとの共同経営店舗で、〇〇は店舗オーナーに関する文言が入る場合が多かったように記憶しています。そのルールにのっとり、店舗名称に「シントク」の名前が入っていたものと思われます。

 

オープンした1992年当時は、まだ秋葉原が純然たる「電気街」だった時期ですが、石丸電気サトームセンを代表とした大型家電量販店がまだ幅を利かせていた中、シントク電気は家電量販店としてはマイナーな存在で、この頃から徐々に増加してくるサブカルチャー路線の店舗増加と歩調を合わせるかの如く、セガと組んでゲームセンター運営への業態変化へ舵を切ったという状況が想像されます。

 

しかし当時は家電量販店だけでなく、秋葉原に多数存在していた電気、電子関係の商店や、増加傾向にあったPC、ソフトショップ等も18時を過ぎると次々と営業を終了し、20時を過ぎる頃には営業している店舗はほぼ皆無。まるでゴーストタウンのような光景が広がっていました。

 

そんな中では遅くまで営業している飲食店も少なく、付近のオフィスから退勤する人々もシャッターを下ろした店舗ばかりの電気街を素通りして駅へ向かうだけだった当時の秋葉原でゲームセンターをオープンさせるということはかなりのチャレンジだったのではないかと思います。

 

そのような当時の秋葉原の夜間事情が考慮されたのか、オープン当初の営業時間は10時~22時までであり、都心部にありながら24時まで営業をしないという非常に稀有な店舗でした。

 

私はここでのアルバイトシフトの殆どを遅番でこなしましたが、実際オープンしたての頃は20時を過ぎると特に平日の店内は都心部の店舗とは思えないほど閑散としていたものです。しかし平日夜間の閑散っぷりとは裏腹に、週末の昼間は秋葉原に徐々に集積しつつあったサブカルチャー系顧客の集客に成功、まだ電気街のメインストリートである中央通り沿いには他のゲームセンターが一切存在しなかったため、秋葉原に最初に出店したガリバーとしての恩恵を存分に受けることとなります。

 

特に地下1階のビデオゲームコーナーはフロアを歩き廻ることさえ困難なくらいごったがえすこともありました。セガとシントク電気の目論見は見事に的を得ることとなります。

 

その2へ続きます。