小人閑居して不善を為す chapter3

一介のプレイヤーからハイスコアラー、そしてゲームセンターの中の人を経てアーケードゲームと関わること40年以上、その普通とはかなり異なるゲーマー人生を回顧するべく記事を綴っております。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド四日市ガルボ その3

店舗として過酷な環境にあったセガワールド四日市ガルボですが、更に当時のセガという会社の情勢が追い打ちを掛けることになります。

 

元々この「四日市ガルボ」という施設そのものが、「テーマパーク事業」というお世辞にも成功したとは言い難いプロジェクトの副産物であり、そこで働く社員やスタッフはその尻拭いをさせられている格好ではありましたが、加えて当時の家庭用ゲーム戦線でプレイステーションの後塵を拝していたセガが繰り出したこのハードの影響を受けることになります。

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sega.jp

(画像は「セガハード大百科」から転載)

 

そう、1998年に販売された「ドリームキャスト」、セガが最後にリリースした家庭用ハードウェアです。

 

私が四日市へ赴任したのが1998年秋頃なので、その数か月後には発売が開始されます。セガのアンテナショップとしてゲームセンターにおいても各種販売促進ツールが提供されました。

しかし、アーケードゲームメインのブログのため詳細は割愛しますがその結果は知られている通り惨憺たるものとなり、セガ本体は1998年3月期から赤字決済へ転落。その影響はコンシューマーとは関係ないゲームセンターの現場へも容赦なく襲い掛かってきました。

 

1999年に入り、店舗社員に人事部から通知か来ます。

内容は「希望退職募集のお知らせ」と、それに付する割増退職金支給要件、及び退職後のキャリア形成支援プログラムであり、かつその申し込みについて所属上長の許可は必要ないというものでした。とどのつまりリストラです。

 

当時の私は「エリア社員」という立場でした。セガの各地域単位で採用され、地域外への転勤がない代わりに契約は年単位で毎年更新、かつ退職金は支給されないというもの。しかしながら今回の希望退職希望者はエリア社員に対しても正社員同様勤務年数に応じた割増退職金を支給するという破格のもので、まだ転職して2年程度だった私も正直応募することを真剣に考えました。

それでも最終的に応募しなかったのは、その頃丁度店長が交替となり、新店長の下で少しでも店舗の現状を改善する方向で意思統一をしたことが大きかったのですが、結局は4人在籍した社員のうち店長と私以外の2人は希望退職に応募してセガを去ることになります。

代わりに赴任してきたのはその年の新入社員2名。セガ本社採用で期待と共に入社してきたこの2人には、いきなり酷な環境で仕事をさせることになってしまいました。会社の事情とは言え不憫に思わざるを得ません。

 

余談ですが、会社業績が芳しくない中、賞与としてドリームキャスト本体が「現物支給」されたことがあります。

家ではあまりゲームをやらない派だったので貰った直後に兄へ渡してしまいましたが、斑鳩くらいは買って遊べば良かったかな、と後に少々後悔しました。

 

 

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ダービーオーナーズクラブ筐体 SEGA VOICE より転載)

さて、色々と試練であった1998~1999年ですが、1999年後半に入ると「ダービーオーナーズクラブ」がヒットし店舗の売上向上に寄与。景品の不良在庫処理も進行し、ゲームセンター側の懸案は徐々にですが解消しつつありました。

そしてカラオケについては効率の悪かった週末の深夜営業時間を短縮、明け方までの勤務が無くなったことで社員の負担は大きく軽減されることとなります。 

 

また、テーマパークとしての営業終了後に倉庫代わりとなっていた元2階フロアが唯一一般に開放されたイベントがあります。当時のねとらぼ記事がまだ残っていました。

nlab.itmedia.co.jp

大御所系漫画家の原画展で、運営について特に店舗で協力をした覚えがないことから、持ち込み企画だったのだろうと思います。ポツポツと入場はありましたが盛況とまでは行かなかったようで、その後私が知り得る範囲では2階を使用したイベントは実施されませんでした。

 

 

色々と紆余曲折があったセガワールド四日市ガルボにおける勤務ですが、結局ここで約1年半を過ごすこととなります。そして次の店舗へは遂に店長として異動を命じられることとなります。

場所は同じ四日市市内に位置していた「セガワールド生桑(いくわ)」でした。

 

その後四日市ガルボセガカラ屋の閉店等を経て、最終的に2008年2月まで営業が続いていたようです。閉店後建屋は家具のアウトレットショップとなっていました。

何故か建屋のエレベータだけを撮影した動画を発見。


HI 服部家具センター 四日市店のエレベーター

確かにこんなエレベータあったわ!実質倉庫である2階からの物品運び出しや、同じく2階にあった事務所、従業員休憩所からの移動にしか使用されていませんでしたが。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド四日市ガルボ その2

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2020年7月24日撮影(以前に建屋が建っていたであろう場所にて)

 

「そこで働く社員やスタッフにとって大きな負担」であった具体的な要素として、以下のようなものがありました。

 

セガカラ屋の存在

当時のセガが通信カラオケ事業を手掛けており、また有り余る店舗面積を埋めるために展開された「セガカラ屋」ですが、一般的ゲームセンターは風営法の営業時間規制で夜間は24時にて閉店するのに対し、セガカラ屋は建屋が同一とはいえ入口を別個に設けて風営法の対象外としていたこともあり、平日は25時(翌日午前1時)、週末や祝前日は29時(翌日午前5時)までが営業時間となっていました。

そのため、24時まで営業のゲームセンターにおける「早番(9時出勤)、中番(12時出勤)、遅番(17時出勤)」のシフト体系に加えて追加してカラオケが29時まで営業する日には「深夜番(20時出勤)」というシフトが存在。それを4人の社員で廻すのですが24時間操業の工場3交代勤務と大差ない勤務体系を強いられました。

しかも特にカラオケは慢性的なアルバイトスタッフ不足に見舞われており、特にピークタイムである週末の20時~24時付近で対応する人員を補うため、おおよそ早番や中番の社員が定時終了後フォローする状態が慢性化していました。9~24時程度の勤務はまだ体力があった当時は乗り切れましたが、今の年齢では到底対処出来る自信はありません。

 

また、カラオケは飲食を提供していたため厨房を備えており、調理及び客室への提供は社員及びスタッフが対応します。週末の夜間が忙しくなるのは結局飲食オーダーに対応する必要があるからで、前述した長時間勤務の要因になることもさることながら、ゲームセンター勤務における業務としては通常求められない調理作業や食材の仕入れや管理といった業務が発生しますが、専属の社員はおらず全てゲーム側と兼任して対応にあたる必要がありました。通常の店舗と比べると明らかに高い負荷を求められていました。

 

②慢性的スタッフの不足

ゲーム部分の規模はホリデイスクエアと大差なく、かつカラオケを抱えていたため、前述のように社員は総勢4人配置されていました。ホリデイスクエアは3人だったのですが、契約社員2名が在籍していたため実質5名体制で、かつアルバイトスタッフも充足していたため「人出不足」になる状況には殆ど遭遇しなかったのに対し、工業地帯が近く学生バイトが少ない地域でもともとスタッフの充足が難しい場所だったことも手伝い、ゲーム、カラオケ共に慢性的に人員が不足していました。

それに加え元テーマパークであることが起因する高い固定費負担のため、人件費に大きく予算を割けないことからスタッフを必要以上に抱えることが出来ないという構造的問題も抱えていました。

 

そして、慢性的な人員不足がもたらしていた副作用として「社員とアルバイトスタッフ間の関係」があります。スタッフが少ないと店舗を廻すために社員はどうしても既存スタッフに対して下手にならざるを得なくなり、一部には社員に対して高圧的な態度をとる者もいました。また協力してくれるスタッフに対してもその負荷に対して充分に報いているとは決して言えず、その状態が続いていることでスタッフが店舗運営に対して不満を募らせていることがはっきりと伝わってきました。

 

➂高い固定費がもたらすもの

いくら店舗運営に関する固定費が通常の店舗より高いといっても、それを理由に赤字となることは企業である以上は許してくれません。

必然的に売上を大きくするしかないわけですが、1990年台後半のコナミ音楽ゲーム全盛期において、セガコナミのゲームを店舗に導入出来ない環境でした。この状況は20年経過した現在においても大きくは変わっていないのですが…

そうなると結局は一般層がプレイするプライズゲームメダルゲームで売上向上を図ることになるのですが、特にプライズについては短期的に売上を増加させるため不人気な景品ブースの即入れ替えを続けていた結果、倉庫となっている2階部分に不人気景品として外された在庫が多数積み上がり放置されていました。

店舗の管理システム上に在庫として残っている以上、いずれは処理しなければならない訳ですが、プライズ機へ投入すれば売上が下がり、またサービス台のような形で放出すれば経費が嵩んでしまうため処理が先延ばしにされ続けていたのです。

 

一方ゲーム機においては、機器償却費が高い新機種を次々と導入は出来ないため、他店と機械をローテーションして目先を変えたり、倉庫在庫を引っ張ってきたりするのですが、その中には日本で数える程しか製造されなかった「セガ、ルーレットクラブDX」などという機械も含まれていました。

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セガ・ルーレットクラブDX パンフレット:画像はヤフオクから転載)

 

ゴージャスな見た目ですが内容はただのルーレットなのでゲーム性は乏しく、またセンサートラブルでしょっちゅうエラーを出し停止するため、製造台数も少なく倉庫に眠っていたのもさもありなんというタイトルだったのですが、少しでも店舗に変化を与えるためには手段を選んでいられない状況でした。

 

 

また、当時の店舗社員は基本的に会社が契約している住居へ入居するのですが、私と入れ替えになる前任者が使用していた住居がとてつもなく汚く、台所さえも土足で入らなければならない有様だったため、前任者が部屋から荷物を完全に撤去するまで私は自分の荷物を運びこめず、営業所倉庫に一時保管しなければなりませんでした。豊橋の時とはうって変わって仕事も私生活も過酷な状況となり、「とんでもない場所へ来てしまった」との思いを持たざるを得ませんでした。

 

その3へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド四日市ガルボ その1

1998年、セガワールドホリデイスクエアの閉店に伴い、次の赴任地となったのは三重県最大の街四日市市の「セガワールド四日市ガルボ」。市南側の工場地域に程近い場所に、イオンが運営する「パワーシティ四日市」というショッピングセンターがあり、そのテナントとして営業していました。

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2020年7月24日撮影

 

「犬も歩けばイオンに当たる」とまで言われていたかは定かではありませんが、三重県、特に四日市市はイオンの前身である岡田屋発祥の地で、市内の至る所にイオンの店舗が存在しています。

「パワーシティ四日市」もイオンの施設のなのですが、他のショッピングセンターと異なっていたのは、「パワーシティ」の名称が示すように当時米国によく存在した「パワーセンター」という形態で、ショッピングセンターにありがちな大型、多階層の建屋は存在せず、駐車場の周囲を各テナントの個別の建屋が取り囲むような施設となっており、セガも複数存在した建屋の中のひとつでした。

ja.wikipedia.org

パワーセンター」の参考資料。日本ではあまり一般的ではないですね。

 

写真では「イオンタウン」となっていますが、2011年に「パワーシティ四日市」から「イオンタウン四日市泊」へ施設名が変更されています。そして2018年に一旦営業を終了して施設の全面建て替えを行い、大型の建屋の周囲を駐車場が取り囲んでいる一般的なショッピングセンターへと模様替えして2019年に再オープンしています。

 

さて、このセガ店舗が特筆すべき点はその「四日市ガルボ」という名称。

セガのテーマパーク事業と言えば、現在もお台場にて営業が続く「東京ジョイポリス」が想像されると思いますが、商圏の大きな大都市では「ジョイポリス」の名称で展開していたのに対し、スケールを小さくした小型テーマパークを「ガルボ」の名称にて平行展開していました。

www.wizforest.com

flameheart.at.webry.info

セガのテーマパーク事業の展開経緯は上記「ガルボジョイポリス」が詳しいので、転載させて頂きました。「ガルボ」という名称では四日市以外に、テーマパーク事業1号店の大阪ATCと、千葉の市川に存在していた模様です。

 

しかし中途半端なコンセプトが市場には受け入れられず、私が赴任した1998年の時点では既にテーマパークとしての営業は終了しており、普通の大型ゲームセンターと化していました。

建屋は2階建てで、大型アトラクションが設置されていた2階フロアは完全に閉鎖されお客様が立ち入ることは出来ず、アトラクションの残骸やツール類が放置され倉庫代わりとして使用されていました。ゲームセンターとしての営業は1階フロアのみで行われていましたが、テーマパークから業態変更する際にフロアに手が加えられたようで、2階を封鎖しても埋めきれない広いフロアにはビリヤードコーナーとカラオケ店「セガカラ屋」が新たに設けられていました。

 

当時のセガアミューズメント施設は地域別で管理運営されており、中部地域は愛知県、三重県岐阜県及び福井県、石川県、富山県の東海並びに北陸地域の6県を管轄していましたが、テーマパーク事業はセガ本社の直轄事業だったため、四日市ガルボのオープン時は恐らく当時のセガ中部地域は関与していない施設であったと思われます。

それがテーマパークとして撤退し普通のゲームセンターとなるにあたり、直轄から中部の管理へ変更されるのですが、封鎖されている2階部分も含めた広大な店舗の家賃は(テーマパーク撤退時に当時のイオンと交渉はされたと思いますが)引き継がれ、また恐らくゲームセンターへの改装時費用やテーマパーク時代の設備除却費用といったコストが上乗せされていたため、固定費負担が重く非常に利益率が低い店舗となっていました。

 

この「元テーマパークであったがための過大な設備」が、私を含めて当時ここで働いていた社員やスタッフに対して大きな負担を強いることとなっていたのです。

 

その2へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールドホリデイスクエア その2

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2020年6月6日撮影(以下写真は全て同一日撮影)

 

エントリーその1で掲載した施設案内図の中で、現在「MEGAドン・キホーテ」になっている建屋がありますが、かつてそこはイトーヨーカドー豊橋店でした。

 

実はそのヨーカドー内2階にも「セガワールド豊橋」がショッピングセンター内店舗として営業をしており、同一敷地内にセガ直営店舗が2店存在するという珍しい場所でもありました。

 

このセガワールド豊橋、「セガワールド」の名称を初めて採用した店舗という話を聞いた覚えがあるのですが、真偽は定かではありません。

ショッピングセンターインストア店舗ということもありこちらは完全なファミリー向けで、プライズ機とメダル、あと子供向け乗り物(キッズライド)が中心の機械構成であり、ビデオゲームの類は皆無だったと思います。

 

社員間同士では交流があり、仕事終了後一緒に食事に行ったりしたことはありましたが、スタッフは完全に別々で管理されており、双方の店舗を掛け持ちしたりスタッフを店舗間で融通するようなことは殆どありませんでした。

 

話をセガワールドホリデイスクエアに戻しますが、前述したように建物の老朽化が著しかったこともあって建て替えが計画され、1998年に閉店を迎えることとなります。

そして1年度の1999年、「ホリデイスクエアアミューズメント棟」として新築された現在の建屋に、「セガアリーナ豊橋」及び「ソニックボウル豊橋」として再度オープンするに至ります。新たにボウリング場も併設され、そちらもセガの運営としてスタートしました。

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しかし、その1の写真で既にお気づきの方もいらっしゃると思いますが、現在の建屋には「TAITO STATION」の文字とインベーダーのロゴが踊っています。

 

これは2009年3月にて、セガからタイトーへ譲渡された店舗の中に「セガアリーナ豊橋ソニックボウル豊橋」が含まれていたためで、規模も売上も大きかったこの店舗が譲渡対象に入っていたことに驚愕した記憶があります。

 

ただ、店内を見る限りではセガ時代の内装がほぼそのまま使用されているようです。

隣のセガワールド豊橋も当初は譲渡対象店舗だったようなのですが、結局譲渡はされずにセガワールドのまま営業が続けられていました。2017年のイトーヨーカドー閉店まで営業されていたようです。それでも私が豊橋を去ってから20年間営業が続いていたんですね。

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さて、ホリデイスクエア閉店によりアルバイトスタッフの一部は近隣他店舗に移ったものの基本は雇用を終了、社員は全員他店へ配置替えとなり、私は三重県四日市市の店舗へ異動することとなります。豊橋での勤務は1年程度に留まりました。

 

閉店後の残務終了後、社員及び一部主力スタッフにて温泉旅行に行ったのは、日頃営業時間が長くまた定休日もないため、スタッフ総出でイベントを行うことがほぼ不可能なゲームセンターの勤務においてはなかなか出来ないことだったと思います。

 

それなりに楽しく仕事をさせてもらった豊橋時代ですが、四日市で最初に配属された店舗はうって変わって複雑な事情を抱えていた店舗であり、また当時のセガという会社の情勢にも翻弄される運命が待ち構えていました。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールドホリデイスクエア その1

時は1997年。

就職後名古屋へ配属された私は、その時求人広告紙に度々目を通していました。

 

良く新卒が会社を辞めるタイミングで「3日、3か月、3年」と言われますが、丁度3年目に突入していた当時の私には色々と魔が差していたのかもしれません。

 

その広告紙内に、セガの東海地域(愛知、岐阜、三重県)のエリア店舗社員の募集を見つけてしまった私は、それに応募して内定をもらい、アルバイトスタッフとして勤務してからおよそ4年振りにセガの店舗で今度は社員として働くこととなります。

 

当時名古屋市名東区にあったセガの事務所で数日の研修と店舗見学を経て、最初に配属されたのが豊橋市にあった「セガワールドホリデイスクエア」でした。

 

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2020年6月6日撮影(以下写真は全て同一日撮影)

このブログの「キャノン最前線&オレンジペコ その6」のエントリーで、「とある事情で北名古屋市から豊橋市に移った」と記しましたが、その理由は他でもなく、セガへ転職して豊橋市の店舗に配属されたためです。

 

写真の後方に高層建築物が見えていますが、これが当時は「ホリデイ・イン豊橋」というホテルで、その後「ホテル日航豊橋」→「ロワジールホテル豊橋」と経営母体と名称が変更されつつ現在も営業が続いています。基本はこのホテルを核とした商業施設なのですが、名前の元となったホリデイ・インが撤退後も施設名称は「ホリデイスクエア」のままとなっています。

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現在の施設入口サインポールと施設案内図。
写真に写っている情報に違和感を感じる方もいらっしゃると思いますが、その理由は追って説明します。

 

施設案内図で黄色にて表示されている、現在のアミューズメント棟は1999年に新築オープンしているのですが、新築前の同じ場所にセガワールドホリデイスクエアは存在していました。

 

その建物は元々スケートリンクとして使用されていたため、平屋の広いフロア(確か500坪程度)に異常に高い天井が特徴的でしたが、建物自体が1997年時点で相当老朽化が進んでいたため雨が降ると外壁部分から漏水、雪が降った際には漏水個所から店内に降雪が起こるというありさまで、店舗の気密性は最悪。また天井の高さも相まってフロアの空調の効きが極度に悪く、夏場はフロアの気温は普通に30℃を超え、冬場は20℃に届かないことからスタッフは特例として店内でもジャンパーを羽織ることが認められていました。正直客として長時間店内に滞在するのは厳しい店舗だったと思います。

 

営業的には商業施設内に立地している大型店ということもあり、当時のセガ東海地域管轄店舗においても売上は上位に属している基幹店でした。平日に比して圧倒的に売上が高い週末に訪れる一般客層がメインターゲットのため、プライズ機やメダルゲームが主流の「当時のセガワールドっぽい」機種構成でしたが、ゲーム好きな社員やスタッフが週末を中心に対戦モノやバーチャロンを中心としてゲーム大会を実施しており、ささやかですがゲームファンを呼び込もうという施策も行っていました。

まあ私は対戦モノを一切プレイしない人間だったので殆ど関与はしませんでしたがw

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また、敷地内に大型ホテルが立地していたため、夜間になると宿泊客の団体が店舗にやってくることが多々ありました。圧倒的に多かったのは外国人観光客で、インバウンドの概念が無かった20年前から外国人宿泊客の割合が大きかったのは、当時の「ホリデイ・イン」が収容力のある外資系ホテルであったこともそうですが、成田で入国した団体観光客が観光バスで京都等関西方面へ移動する際、豊橋という場所が東京と関西のほぼ中間に位置するため、中継地として選ばれやすかったことも起因していたようです。

 

当時の外国人団体で圧倒的に多かったのは中国系および中東系。

おおよそホテルカジノと勘違いして大騒ぎでメダルゲームをプレイし、最後に換金しようとカウンターへメダルを持ってくるものの換金出来ないため言い争いになるまでがセットで、換金不可の旨を説明するのが非常に面倒くさかった覚えがあります。日本だけですからねメダルゲームのシステムは。

 

こうして最初に配属されたセガワールドホリデイスクエアですが、大型店ということもあり事務専属のスタッフも在籍していたため伝票作成等の事務作業は専属スタッフが行い、アルバイトのシフト作成も別の社員の仕事だったため、営業時の金銭管理やスタッフ指導のような業務を除いては仕事内容はアルバイト時代とそれほど大きく変わったという印象はありませんでした。まだ入社したてだということもあり、他の社員の指導や監視が可能な店舗で仕事振りを確認しようという意図だったのだろうと思います。

 

その2へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 ハイテクランドセガシントク その2

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2020年9月3日撮影(以下写真は全て同一日時)

 

前回は店舗がオープンした頃の秋葉原事情の話が殆どでしたが、今回は実際の勤務や店舗内の話を中心に内容を進めていきます。

 

1992年11月新規オープンだったため、夏休みが明けた9~10月頃には採用面接を受けていました。建屋の5階事務所で数人単位で集団面接を行った記憶が残っています。

 

5階が事務所だったということから伺えますが、オープン時は地下1階~4階までが店舗として使用されていました。6階から上は立ち入った記憶はありません。当時のフロア構成は以下のようになっていました。

 

地下1階:ビデオゲーム

1階:プライズ機及び大型筐体

2階:大型筐体及びカーニバルゲーム(エレメカ系)

3,4階:メダルゲーム 

 

特に秋葉原という立地を考慮してフロア構成や設置機械が他のセガ店舗から大きく変更されるということはなく、当時の標準的な機種構成だったのではないかと思います。まだ秋葉原という市場が未知数だったということでしょう。

 

しかし前述したように、特に週末になると地下1階のビデオゲームコーナーには客があふれている一方で、2階のカーニバルゲームや3階、4階のメダルコーナーには人影が少ない状況が多く、秋葉原という市場で売上が期待できる機種の傾向がはっきりしてくるにつれ順次フロア構成も変化していったように思います。

 

とは言え私がスタッフとして働いていた期間には大きなフロア構成の変化に当たることはありませんでした。

日頃から別のゲームセンターへ通い詰めていた私はおおよその仕事の内容を把握していたため、他のスタッフの殆どが未経験の中で卒なく仕事をこなしていましたが、ハイテクノーベル神保町のアルバイト退職の影響でそちらからお声が掛かり、バイト先をノーベルへ移すことになります。そのためシントクでの勤務歴は半年程度で終了しました。

 

そしてこの記事をまとめるにあたり、先日20云年振りにセガ1号館に入店したのですが、当時は事務所だった5階を含め7階までがフロアになっており驚いたものです。「秋葉原史記事」のブログによれば2018年に大規模改装が実施されているようなので、その際にフロア化されたのでしょうか。

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現在のフロア構成は写真のようになっており、当然ながら私が働いていた頃と比較すると全く異なるものとなっています。

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(現在の2階フロア。オープン時はカーニバルゲームと一部大型筐体があったフロアです。)

オープン時のフロアだった1~4階までが全てプライズ機になっており、昨今のゲームセンターが何で売上を立てているのかはっきりとわかるフロア構成であり、30年という時間の流れを感じざるを得ません。

 

店舗がオープンした1992年当時は、最初のUFOキャッチャーブームが始まった頃とは言え、まだゲームセンターにおけるビデオゲームの売上比率が大きかった時代です。

しかしながら80年台には比較的ゲームファンに寛容であったセガナムコの直営店は、90年台に入ると一般層にアピールする方針から、急速にゲームファンを店舗から排除する方向へ舵を切ります。店舗のことを「ゲームセンター」と呼ばれることを忌諱し、内部では盛んに「アミューズメントセンター」と呼ぶように指導されていました。

 

余談ですが、結局「ゲームセンター」を「アミューズメントセンター」と呼ぶことは定着せず、ゲームセンターという言葉自体に以前のネガティブ感が薄れた現在はメーカーも普通に「ゲームセンター」という呼称の使用に戻り、「アミューズメントセンター」はむしろパチンコ業界が使用する呼称になっています。

 

そんな時代背景もあり、例え秋葉原と言えども市場は未知数であること、またオープン時のフロア構成を見てもわかるように特にゲームファンの集客は志向されませんでした。

ゲームファンやスコアラーを集客するためにコミュニケーションノートを設置したり、連射装置を取り付けるようなサービスは、フロアも大きくスタッフ数も多いため管理が出来ないことを含めてむしろご法度で、私も仕事は仕事と割り切って勤務していました。そのため仕事のオフ時やプライベートでは一切店舗には近寄らず、ハイテクノーベル神保町をホームとする日常には一切変化はありませんでした。仕事と遊びは別ということですね。

 

今回20数年振りに店舗の中へ足を踏み入れた状況からもお分かりいただけるように、スタッフを辞めた後もほぼ近寄らなかったシントクですが、退職後最初のうちは仲の良かった残留スタッフから店舗動向情報を入手する機会はありました。

その最たるものは、「秋葉原史記事」ブログ内にも記載されていますが、オープン翌年の1993年に起きた共同経営先のシントク電気倒産。建屋はサトームセンが購入しましたが、立地が良かったことと当時ですら建物の老朽化が目立っていたため、ゲームセンターは閉店して同じ場所に新たな家電量販店を建設する計画が浮上しているという情報を耳にします。

 

しかしながらゲームセンターとしての売上があまりにも良好だったこともありなかなか実現には踏み切れなかったようで、営業が続けられるといつに間にか建て替えの計画は霧散し、「ハイテクランドセガ秋葉原」「セガ秋葉原1号館」と名称を変えつつ30年近く経過した現在でも引き続き営業が続いているのは皆様ご存じの通りです。

 

この店舗の成功により、秋葉原はゲームセンターが商売として成立する場所という認識が広がったことで、現在セガが最大5店、またタイトーやレジャーランド、アドアーズ等がこぞってゲームセンターを出店する礎になったことは疑いのない事実でしょう。秋葉原の風景を変えることになったきっかけとなる店舗だったと思います。

 

そして私のアルバイトスタッフとしてのセガ勤務歴は半年程度で終了したのですが、その後4年後には再度、今度は社員としてセガに戻ってくることとなるのでありました。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 ハイテクランドセガシントク その1

ブログの冒頭説明書きにも記載しておりますが、私にはゲームセンターの中の人だった時期があります。1997年から2005年までのおおよそ8年間の間、セガ社員としてゲームセンター店舗運営職に従事いたしておりました。

 

ここから暫くは、そのセガ勤め時代の話にお付き合い頂ければと存じます。

 

東京の大学を卒業し、就職で名古屋に戻ったのが1995年、最初の会社を3年弱にて退職しセガに移ったのが1997年なのですが、実はその前に布石があります。

 

時は1992年。

当時大学2年生の私は神田淡路町付近でゲームセンターではないアルバイトを行っており、バイト先近くの「ハイテクノーベル神保町」をホームゲーセンとし、バイトの帰りは最寄の秋葉原駅から電車に乗って帰る生活を送っていました。

 

そのバイト帰りに偶々見つけたのか、ハイテクノーベル神保町の常連経由から情報を得たのか経緯ははっきりとは覚えていませんが、秋葉原に新規オープンするゲームセンタースタッフ募集に応募することになります。その店舗が現在も営業を続けている「秋葉原セガ1号館」、当時の「ハイテクランドセガシントク」でした。

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 2020年9月3日撮影

blog.livedoor.jp

上記「秋葉原史記事」ブログ内に秋葉原セガ店舗の歴史が刻まれており、「ハイテクランドセガシントク」はもともとこの建屋のオーナーで、この場所で家電量販店を営んでいた「シントク電気」とセガがゲームセンターの共同経営を開始したことがルーツとなっています。

 

当時のセガ店舗は、「ハイテクセガ〇〇」という名称と、「ハイテクランドセガ〇〇」という名称が混在していましたが、「ハイテクセガ」はセガが建物と賃貸契約を結んで営業する純然たるセガ直営店舗で、〇〇は場所を表していることが多い一方、「ハイテクランドセガ」の場合は店舗オーナーが別に存在するセガとの共同経営店舗で、〇〇は店舗オーナーに関する文言が入る場合が多かったように記憶しています。そのルールにのっとり、店舗名称に「シントク」の名前が入っていたものと思われます。

 

オープンした1992年当時は、まだ秋葉原が純然たる「電気街」だった時期ですが、石丸電気サトームセンを代表とした大型家電量販店がまだ幅を利かせていた中、シントク電気は家電量販店としてはマイナーな存在で、この頃から徐々に増加してくるサブカルチャー路線の店舗増加と歩調を合わせるかの如く、セガと組んでゲームセンター運営への業態変化へ舵を切ったという状況が想像されます。

 

しかし当時は家電量販店だけでなく、秋葉原に多数存在していた電気、電子関係の商店や、増加傾向にあったPC、ソフトショップ等も18時を過ぎると次々と営業を終了し、20時を過ぎる頃には営業している店舗はほぼ皆無。まるでゴーストタウンのような光景が広がっていました。

 

そんな中では遅くまで営業している飲食店も少なく、付近のオフィスから退勤する人々もシャッターを下ろした店舗ばかりの電気街を素通りして駅へ向かうだけだった当時の秋葉原でゲームセンターをオープンさせるということはかなりのチャレンジだったのではないかと思います。

 

そのような当時の秋葉原の夜間事情が考慮されたのか、オープン当初の営業時間は10時~22時までであり、都心部にありながら24時まで営業をしないという非常に稀有な店舗でした。

 

私はここでのアルバイトシフトの殆どを遅番でこなしましたが、実際オープンしたての頃は20時を過ぎると特に平日の店内は都心部の店舗とは思えないほど閑散としていたものです。しかし平日夜間の閑散っぷりとは裏腹に、週末の昼間は秋葉原に徐々に集積しつつあったサブカルチャー系顧客の集客に成功、まだ電気街のメインストリートである中央通り沿いには他のゲームセンターが一切存在しなかったため、秋葉原に最初に出店したガリバーとしての恩恵を存分に受けることとなります。

 

特に地下1階のビデオゲームコーナーはフロアを歩き廻ることさえ困難なくらいごったがえすこともありました。セガとシントク電気の目論見は見事に的を得ることとなります。

 

その2へ続きます。

私のアーケードゲーム履歴書 エレベーターアクションリターンズ

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タイトー 1994年発売

 

1983年に発売された初代エレベーターアクションのリメイクタイトル。

初代は1983年当時ではかなりヒットしたタイトルでしたが、一回りに近い年月が経過していたこともあり、続編ではなくリメイクとしてリリースされました。タイトーアルカノイドが成功したこともあってヒット作のリメイクには積極的でしたね。

画面の色使いや音楽のせいでコミカルチックな印象があった初代と比べると、こちらは完全に硬派に寄せた造りになっており、ゲームシステム以外は全く別物といっても過言ではないでしょう。

 

半面派手さには欠けていたため、初代ほどヒットしたという感じはしなかったのですが、現在でも地味に稼働している店舗が残っているタイトルではないかと思います。

分かりやすいゲーム性と、低めの難易度で比較的長時間遊べることで支持されているのではないでしょうか。インカムとしては微妙なのでしょうが...

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ゲーム内容は「ギミックが増えたエレベーターアクション」です。

Aボタンでガンを発射、Bボタンはジャンプ、AB同時押しで手榴弾を投擲、また敵と至近距離の場合は近接攻撃となり敵を殴り倒します。

 

この「近接攻撃」が稼ぎにはとても重要で、ガンでは2発以上ヒットさせないと倒せない耐久力のある敵も一撃で倒せます。

そのため、近接攻撃で1,000点を獲得できる敵が一定間隔で湧いてくる扉の前でスタンバり、クリア可能な残り時間まで粘って稼ぐ。正直重要な稼ぎはこれだけです。

 

そしてハイスコアは初回集計で999,999点のカウンターストップにて終了。そのためスコア的には盛り上がりに欠けるゲームとなってしまいました。

自分は初月にカンストが間に合わず、全国〇名様とは言えトップを取り逃しています。

 

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ゲーメスト 1995年6月30日号より)

 

 タイトル画面は1994年の表記なのに、集計がされたのは1995年6月30日号と半年も経過しています。開発進捗や販売の都合でタイトル表記と実際の稼働開始時期が異なる場合は時折ありますが、半年もずれたのは何か理由があったのでしょうか…

 

以上、エレベーターアクションリターンズは終了。

今回追加タイトルはこれで打ち止めです。また取り上げたいタイトルがありましたら随時紹介することにします。

私のアーケードゲーム履歴書 ハイパーデュエル

ちょうどこのエントリーを書いている時、世間はコロナ禍の真っ最中でハイスコア集計店の跡地を巡ることがままならない状況となってしまいました。

現地調査無くともエントリー可能な題材は無いかと探したところ、昔スコアを狙っていたのに届かなかったゲームタイトルをいくつか思い付きましたので、これを機に取り上げたいと思います。

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テクノソフト 1993年発売

テクノソフトと言えば「サンダーフォース」シリーズが有名ですが、「サンダーフォースAC」でアーケードデビューの後、アーケードオリジナルタイトルとして発売された十八番の横スクロールシューティングです。移植はセガサターン版のみで、アーケードの基板も含めて今では結構プレミアムなタイトルになっている模様。タイトーロケでは結構見掛けたんですけどね。

内容はオーソドックスで、難易度もクリアだけであればそれほど高くはありません。

キャラは2枚目画像のように3機からの選択で、それぞれに特性があります。自分は右端のオッさんキャラ「LLOYD(ロイド)」を使用していました。スペルにLが2つ並んでいるので、「エルロイド」と当時のハイテクノーベル神保町では思われており、「エルロイド」→「エロジジイ」という如何にもな渾名で呼ばれておりました…

 

ハイスコア争いですが、当時は格闘ゲームにおいてはキャラ別集計が一般化していたものの、シューティングにおいては一部人気タイトル以外はキャラ別が行われていない時代で、このゲームのキャラ別も実施されませんでした。

ロイドは火力は最も高いものの移動スピードは最遅。このゲーム、普通に進むにおいては移動速度はそれ程重要ではないのですが、破壊すると最大1万点のアイテムが出るブロックが出現する5面で回収可能なアイテムの数が自機スピードで決定的に異なるため、スコアを狙うためにはキャラ選択は移動速度最速のLISA(リサ)一択となります。そのためスコア争いは箸にも棒にも掛からないまま終了となりました。

 

その他マメな稼ぎとしては、

・ストックボーナス

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アイテムによって装着されるオプションキャラを面クリア時に残すと1機につき1万点が加算されます。オプションは、

T:トレース 戦闘機タイプで自機の動きにある程度追従

G:ガンナー ロボットタイプで敵にオートで向かっていく

の2種類から選択可能ですが、敵を自動追尾するため道中は楽になる反面ステージクリアまで残すことがほぼ不可能なガンナーではなく、トレースを取ってオプションに敵弾が当たりそうになると自機のボムでオプションを守るという謎な行動で面クリアまでオプションを持ち越していました。

よく1面でオプション消失して捨てゲー繰り返してました。

 

ちなみにパーフェクトボーナスは道中の敵全滅、スペシャルボーナスはクリア時のボム残量に比例して加算されます。

 

・3面ボスの岩

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3面ボスで地面に転がっている岩が壊せます。1個1,000点。

この岩をボスにダメージを与えないように最も壊せるキャラのためロイドを選んでいたようなものです。たかだか数千点の違いなので5面ですべて吹っ飛びますがw

 

またこのゲーム、自機が止まっている時に点数のカウンターが10点単位ですが廻っているため、余計な動きを極力避けることで地味なスコアアップとなります。すべて5面で吹っ飛びますがw

 

 あとこのゲームを語るならBGMですかね。サンダーフォースで名を馳せたテクノソフトだけに結構聴き応えある曲が揃っています。

個人的には6面の曲が好きなのですが、世間一般では4面の評判が高いみたい。

以上、ハイパーデュエルは終了。

次回はエレベーターアクションリターンズ(タイトー、1994)を予定しています。

ゲームセンター回顧録 金山&神宮前&伝馬町 その5

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場所を神宮前の隣、金山へ移します。

 

3.金山駅エリア

私が初めて名古屋に来たのは1983年ですが、当時の金山駅は当時の国鉄中央線と地下鉄のみで、東海道線にはまだホームが無く、名鉄は少々東へ歩いた場所に金山橋駅が別に存在していました。

それが1989年に「金山総合駅」として、JRは東海道線にホームを設置、名鉄の駅を移設し現在の姿となることで、駅周辺も名古屋の副都心として大きく変わって行くこととなります。

 

①コムテックスクエア

写真のビルの2,3階で営業する現役のゲームセンター。

1階は元々はパチンコ店で、「DAITOKAI」のサインはパチンコ店の店名でしたが、パチンコ店閉店後もそのままになっています。

2フロアに渡る店内には最新機種が豊富にラインアップされており、パチンコ店系列ならではの資金力を感じさせますが、本業だったパチンコ店は残り1店のみのようで、3店残っている系列のゲームセンター(金山、名古屋駅日進市赤池)の方が本業のようになってしまっているようです。

 

②店名不詳

現在イオン金山店がある場所の裏手の写真のビルにあったゲームセンター。店内は殆どが汎用ビデオゲームで占められていました。店名は確認していません。

1階入り口にある螺旋状の階段が特徴的だったため、外観ですぐに場所を認識できました。

写真では地下1階を収めていますが、中2階がゲームセンターだった覚えもあり、正式な記憶は曖昧になっています…

私がここを見つけたのは恐らく90年代初めですが、当時から場所が悪いため長くは存在しなかったと思います。

 

③アリス金山店

このお店、過去に雑誌に店舗欄が存在したり、スコア集計を行った履歴は一切ないのですが、名古屋のオールドゲーマー御用達ゲーセンを語る上では外せない店舗の一つです。

 

2000年代に突入後、特に名古屋市内においては基板タイトルを良い環境でプレイ可能な店舗が非常に少ない状態でしたが、こちらは特に歴代グラディウスシリーズを中心としたシューティング系タイトルの品揃えで名を馳せておりました。

写真のビルの、現在は飲食店街になっている地下1階全てが店舗となっており、音ゲーや対戦格闘もラインアップされていたものの、少なくとも10台程度は設置されていたシューティングゲームのエリアが当時既に貴重であり、場所も良いため名古屋付近のオールドゲーマーが多数来店されていたようです。

 

2012年4月に閉店。閉店以降既に8年が経過していますが、それ以降名古屋市内は「オールドゲームをプレイしたければここへ行け!」と呼べるような店舗にはあまり恵まれていないように思えます。(矢場町のVAMOSが僅かな期間その任を背負ってましたね…)

 

また「アリス」という名前のゲームセンターは愛知県内に複数展開されており、私の知りうる範囲では名古屋市内に3件(金山、吹上、新瑞橋)、西春日井郡豊山町、岡崎、豊川とかなりの数が存在していました。

 

④ハイテクセガ金山→セガ金山

 名古屋市内にいくつか存在した「ハイテクセガ」をルーツとする店では、セガ運営のまま残っている最後の店舗になるのではないかと思われます。中央線と名鉄の線路が分かれる場所に建っていて金山駅のホームから見えることをご存知の方も多いのではないでしょうか。

 

建物の1~3階までフロアが占めており、都心にしては比較的面積が大きい店舗。セガ内部では「ゲームファン向け店舗」の位置付けがあったようですが、近隣他店と比較すると製品ラインアップでは及ばず、ゲームファンの要望を満たせる運営を行っていたとも思えない(対応できる人材がいない)ため、正直あまりプレイヤーから支持される店舗ではなかったと思います。まあこれは最近のメーカー系店舗全般に言えることですが。

結果的には店舗面積が広いことを生かし、オールドパチスロコーナーを設置したりと迷走している時期を経ながらも、強かに製品構成や客層を変化させてきたことで生き残ってきたのではないでしょうか。

 

⑤ハイテク金山

店舗名を見るとセガの店みたいですが、タイトー系列店舗です。小規模な汎用ビデオゲーム中心の店舗でした。

付近は駅前からは外れており周囲は飲み屋と風俗店ばかりで、ここの跡地も現在は風俗店になっていますが、金山総合駅になる1989年以前は名鉄金山橋駅が付近にあり、線路沿いの道を乗り換え客が多数行き来していたため周辺は結構振るわっていました。

 

しかし駅が移転すると人通りもまばらとなり、ただでさえ奥まっていたこの場所では店舗は長続き出来なかったのではないかと思います。閉店時期は不明です。

 

この店舗は個人的に少々思い入れがあります。

愛知県に引っ越しした際に最初に住んだのは豊田市で、WE'LL  TALK TAITO豊田店に結構出入りしていたのですが、そこに当時恐らく30代くらいの女性の店長?がいらっしゃり、まだゲームセンターに行くことが社会的に認められていなかった時期に店にやってくる当時中学生の私にいろいろと目を掛けて下さいました。

その後異動されたのか、その方は店から姿を消してしまったのですが、その後名古屋へ出掛けた際にたまたまこのハイテク金山を覗いた所、恐らくこちらに異動されたその女性店長と偶然再会することとなります。向こうも私のことを覚えていて下さり、感無量だった遠い日の記憶です。

 

オレンジペコ金山店

既に過去にエントリーしているオレンジペコ杁中店の姉妹店。

杁中が、キャノン最前線の実質後継店舗としてスコアラー向けに特化していたのに対し、こちらは対戦系プレイヤーが中心だったようです。そのためスコアラー界隈ではほとんど話題になることはありませんでした。

金山総合駅開業後にオープンしているはずなので、当初から駅前好立地とは言えない場所だったのですが、一度だけ夜に立ち寄った時には対戦ゲーム中心に結構な数の客がいた記憶が。杁中店同様に基本プレイ料金が50円であれば周辺店舗よりも安いため、場所の悪さを補って余りあるプレイヤーの支持があったのかもしれません。

 

正確な時期は把握していませんが、杁中店同様に90年代末期には閉店している模様です。こちらも跡地は風俗店のようです。

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金山地域は副都心だけにまだ大型店が残ってはいますが、我々の世代が愛すべき個性的なゲームセンターは全て姿を消して久しくなりました。また熱田地域は既にゲームセンターが全滅。名古屋市内で初めてゲームセンター目的で足を踏み入れた場所だけに個人的な思い入れの深いエリアなのですが、昔の痕跡が着々と消えていく現状を目の当たりにすると、やむを得ないとはいえ淋しい気持ちになります。