小人閑居して不善を為す chapter3

一介のプレイヤーからハイスコアラー、そしてゲームセンターの中の人を経てアーケードゲームと関わること40年以上、その普通とはかなり異なるゲーマー人生を回顧するべく記事を綴っております。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド生桑 その2

店舗の客層としては、周囲にロードサイド店舗が林立しているもののセガ自体は実質ほぼ単独店舗だったため、ショッピングセンター内店舗のような「ついでに立ち寄った」という客層はそれほど多くなく、かつ中心市街地からも遠く付近に学校も少なかったため学生もそれほど多くはありませんでした。

 

一方周囲に競合店はほぼ無く、四日市ガルボも含めて大型店があった市南部へ行くには中心部の渋滞を抜けていく必要があったため、店舗近隣である四日市市北部や西部を中心とした固定客層が多くを占めていました。

その立地が幸いし、20年が経過した現在でも店舗が存続しているのではないかと思います。

 

一見さんや学生が少なかったため、プライズ機やプリクラの売上比率は平均的なセガワールドに比べると低く、反面ビデオゲームメダルゲームの比率が高い店舗でした。そのため基板もののビデオゲーム新作は比較的優先で割り当てられました。

当時はまだシューティングゲームが定期的に発売されていたため、入荷したサイヴァリアギガウイング2辺りを仕事のオフ時や勤務前にプレイしていたところ、「あそこの店長シューターだから」と当時の2chにカキコされたりしたものですw

 

またバーチャロンについては広域的に固定客が集まっていたため、後にスタッフとして採用したプレイヤーを中心にゲーム大会を実施したりもしました。

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2020年7月24日撮影

汎用ビデオゲーム筐体を一切設置していない店舗が多数を占める中、僅かに当時の面影を残すコーナーが設けられています。

あまり食指が動くタイトルはありませんでしたが…

 

これまで勤務した2店とは客層も比較的異なり、また店長という立場であったこともあり、ミスタードリラーに連射装置を付けてみたり、コナミ音ゲーが入荷出来ないため倉庫で眠っていたパカパカパッションスペシャルの基板を確保し、アストロシティ用専用コンパネが無いため営業所に談判してコンパネパーツを購入してもらい店舗に投入するなど、多少マニアックな方向にも食指を伸ばしたりしていました。

パカパカパッションの件など、プレイヤーの側から見れば専用コンパネが「付いていて当たり前」なのですが、当時のセガ店舗にはそれを理解する人間が少ないためクイズコンパネで稼働させたりすることを平気でやっていたんですよね。確かにボタン4つなのでプレイ出来ないことはないのですが、ゲームを知っている方から見ればクイズコンパネが付いている時点でコインを投入する意欲は湧かないでしょう。

 

結局は「分かる人間が店舗に勤務しているか否か」でビデオゲーム系の商品価値って大きく変わったりするのですが、そこに目を向けたとしても得られる売上の向上は正直微々たるものです。

反面、必要以上にマニア層が店舗に集まると一般客層を遠ざけてしまうこと、また限られた労力を振り分けるのであればプライズやメダルに振った方が売上向上の効果が大きいため、店舗運営側としてはどうしても対応が消極的になります。

店長という「店舗を預かる立場」からすれば数字に縛られるのは当然なので、元スコアラーとしてビデオゲームに注力をすることは叶わなかったのですが、他の一般客層と干渉しないように店舗内のゾーニングに配慮したり、メンテナンスに気を使ってみたりとささやかではありますがプレイ環境の向上を心掛けていたつもりではあります。

 

 

だた、三重県に勤務していた時は自分が最も「プレイヤーとして」アーケードゲームから離れていた時期だったのではないかと思います。

四日市ガルボに赴任した頃には既に名古屋のホームであったオレンジペコは閉店していたため、オフの日に名古屋へ遊びに行く最大の動機は元オレンジペコ常連との呑みかもしくはパチスロ。2000年夏まで三重県は全国で唯一パチスロが認可されていない県で、打つためには隣の愛知県まで足を運ぶしかなかったのです。

 

それが2000年夏になると、三重県に正式にパチスロが認可されます。

その時のお祭り騒ぎはもはや伝説級で、パチスロを知らない地元民のために高設定で設置された台を全国からスロプロが漁りに来るという状況が繰り広げられていました。対策で「三重県に在住していることを証明する書類」の提示をホールが求めると住民票まで移してしまう猛者も居たと聞きます。

 

そのお祭り騒ぎの最中に三重県に住んでいた私は、オフの日は朝から晩まで、仕事も早番の時は終了後に連日ホールに通うという生活を送っていました。そのためゲームは完全に二の次で他のゲームセンターへ顔を出すことも余りなかったため、元スコアラーという素性は全く悟られず、地元のプレイヤーとの交流もほぼありませんでした。そこは少々残念な点ではあります。

 

余談ですが、三重県のパチンコ店でもう一つ有名なのが、「大晦日から元旦にかけての深夜営業」で、これはパチスロ認可前から行われていました。

伊勢神宮へ向かう初詣客にトイレを提供するという名目で営業が許可されていると当時から伝え聞いており、パチンコ情報サイト等にもそのような記載がされていますが、本当の理由は定かではありません。

pachiseven.jp

一度大晦日の遅番終了後に覗きに行ったことがあるのですが、深夜のためアナウンスや音楽は一切流されていない店内で、満員の客が黙々と台に向き合っている光景はかなり異様でありました。正月でめでたいのに殆どの台が出てなくて客の目は一様に死んでいるという…

 

その3へ続きます。 

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド生桑 その1

豊橋ホリデイスクエア、四日市ガルボとセカンド社員として勤めること約2年半、丁度2000年に入った頃に初めて「店長」として赴任することになった店舗が今回から紹介する「セガワールド生桑(いくわ)」です。場所はガルボと同じく四日市市内ですが、市の南側にあったガルボに対して市の北西部に位置しており、同じ市内とは言え距離は結構離れていました。

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2020年7月24日撮影(以下写真は全て同一日撮影)

 

これまでの2店と違って現役の店舗です。

四日市市の中心から北西方向へ伸びる国道365号を車で15分程度進むと、現在は「おふろcafe湯守座」となっている「ユラックス」という温浴施設があり、その敷地に隣接しています。国道からは分かりにくく、店舗手前の県道を通らないと見つけにくい場所と思います。

付近にはスーパーやドラッグストア、飲食店等が連綿していますが、ショッピングセンターのようにまとまっている訳ではなくそれぞれが独立した店舗。セガも飲食店や消費者金融の自動契約機と敷地を同じくしていますがいずれも小規模で、郊外の店舗にありがちな複数のテナントが入居している施設ではなく、ほぼ単独に近い店舗となっています。

 

建屋は20年前と同一ですが、2002年に一度リニューアルが実施されています。私は改装前に別の店舗へ異動したのでこの改装には関わっていないのですが。

リニューアル直後の姿が記録されているブログがありました。

blog.goo.ne.jp

リニューアル時に建屋の1,2階全てがゲームセンターとなっていますが、改装前は2階フロアの南側半分はカラオケ店となっており、ゲームは1階及び2階の窓がある北側半分のみでした。

カラオケ店は建物のオーナーが直接運営していたためセガは無関係でしたが入口は正面で共通しており、店内階段を2階に上がると左右に分かれ、左側はセガのメダルコーナー、右側はカラオケのカウンターがある構造となっていました。リニューアル時にカラオケ店は撤去され、2階フロアも全てゲームフロアとして生まれ変わり現在の構造となっています。

その後セガのCI統一戦略により「セガワールド生桑」から「セガ生桑」に店名が変更され、現在の外装に落ち着いていますが、セガワールド時代のロゴやソニックの絵柄があった時の方が雰囲気が良かったんじゃないかと感じるのは決して私だけではないと思います。

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丁度階段からかつてカラオケ店だった場所を望みます。

カラオケ店が存在していた時の店舗面積がおおよそ当時のセガワールドにおける標準的な大きさだったのですが、元カラオケ店部分をゲームエリアとしたことで比較的大きな面積の店舗となりました。

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現在の1階プライズコーナー。1階はプライズの他にプリクラ、音ゲー全般及びスターホース以外のメダルゲームが設置されています。

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2階全景。2階はビデオゲーム、ネットワーク系専用筐体、そしてスターホースという構成。現在はフロアの雰囲気で設置機種を分けているようです。

 

私が赴任していた時期は改装前のため2階は現在の半分の面積しかなく、2階はメダルゲームにて完全に固定し、プライズ、プリクラ、ビデオ、大型筐体といった他のゲーム機は全て1階に設置するという構成でした。

しかし店舗外観写真を見て頂きたいのですが、店舗正面が西向きであり、午後から夕方にかけて西日が直撃するため画面もののゲーム機をガラスに面した場所に設置することが難しく、店内をゾーニングするのにかなり苦慮した覚えがあります。それに比べると現在の店内はスペースを持て余し気味な気もしますね。

 

その2へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド四日市ガルボ その3

店舗として過酷な環境にあったセガワールド四日市ガルボですが、更に当時のセガという会社の情勢が追い打ちを掛けることになります。

 

元々この「四日市ガルボ」という施設そのものが、「テーマパーク事業」というお世辞にも成功したとは言い難いプロジェクトの副産物であり、そこで働く社員やスタッフはその尻拭いをさせられている格好ではありましたが、加えて当時の家庭用ゲーム戦線でプレイステーションの後塵を拝していたセガが繰り出したこのハードの影響を受けることになります。

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sega.jp

(画像は「セガハード大百科」から転載)

 

そう、1998年に販売された「ドリームキャスト」、セガが最後にリリースした家庭用ハードウェアです。

 

私が四日市へ赴任したのが1998年秋頃なので、その数か月後には発売が開始されます。セガのアンテナショップとしてゲームセンターにおいても各種販売促進ツールが提供されました。

しかし、アーケードゲームメインのブログのため詳細は割愛しますがその結果は知られている通り惨憺たるものとなり、セガ本体は1998年3月期から赤字決済へ転落。その影響はコンシューマーとは関係ないゲームセンターの現場へも容赦なく襲い掛かってきました。

 

1999年に入り、店舗社員に人事部から通知か来ます。

内容は「希望退職募集のお知らせ」と、それに付する割増退職金支給要件、及び退職後のキャリア形成支援プログラムであり、かつその申し込みについて所属上長の許可は必要ないというものでした。とどのつまりリストラです。

 

当時の私は「エリア社員」という立場でした。セガの各地域単位で採用され、地域外への転勤がない代わりに契約は年単位で毎年更新、かつ退職金は支給されないというもの。しかしながら今回の希望退職希望者はエリア社員に対しても正社員同様勤務年数に応じた割増退職金を支給するという破格のもので、まだ転職して2年程度だった私も正直応募することを真剣に考えました。

それでも最終的に応募しなかったのは、その頃丁度店長が交替となり、新店長の下で少しでも店舗の現状を改善する方向で意思統一をしたことが大きかったのですが、結局は4人在籍した社員のうち店長と私以外の2人は希望退職に応募してセガを去ることになります。

代わりに赴任してきたのはその年の新入社員2名。セガ本社採用で期待と共に入社してきたこの2人には、いきなり酷な環境で仕事をさせることになってしまいました。会社の事情とは言え不憫に思わざるを得ません。

 

余談ですが、会社業績が芳しくない中、賞与としてドリームキャスト本体が「現物支給」されたことがあります。

家ではあまりゲームをやらない派だったので貰った直後に兄へ渡してしまいましたが、斑鳩くらいは買って遊べば良かったかな、と後に少々後悔しました。

 

 

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ダービーオーナーズクラブ筐体 SEGA VOICE より転載)

さて、色々と試練であった1998~1999年ですが、1999年後半に入ると「ダービーオーナーズクラブ」がヒットし店舗の売上向上に寄与。景品の不良在庫処理も進行し、ゲームセンター側の懸案は徐々にですが解消しつつありました。

そしてカラオケについては効率の悪かった週末の深夜営業時間を短縮、明け方までの勤務が無くなったことで社員の負担は大きく軽減されることとなります。 

 

また、テーマパークとしての営業終了後に倉庫代わりとなっていた元2階フロアが唯一一般に開放されたイベントがあります。当時のねとらぼ記事がまだ残っていました。

nlab.itmedia.co.jp

大御所系漫画家の原画展で、運営について特に店舗で協力をした覚えがないことから、持ち込み企画だったのだろうと思います。ポツポツと入場はありましたが盛況とまでは行かなかったようで、その後私が知り得る範囲では2階を使用したイベントは実施されませんでした。

 

 

色々と紆余曲折があったセガワールド四日市ガルボにおける勤務ですが、結局ここで約1年半を過ごすこととなります。そして次の店舗へは遂に店長として異動を命じられることとなります。

場所は同じ四日市市内に位置していた「セガワールド生桑(いくわ)」でした。

 

その後四日市ガルボセガカラ屋の閉店等を経て、最終的に2008年2月まで営業が続いていたようです。閉店後建屋は家具のアウトレットショップとなっていました。

何故か建屋のエレベータだけを撮影した動画を発見。


HI 服部家具センター 四日市店のエレベーター

確かにこんなエレベータあったわ!実質倉庫である2階からの物品運び出しや、同じく2階にあった事務所、従業員休憩所からの移動にしか使用されていませんでしたが。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド四日市ガルボ その2

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2020年7月24日撮影(以前に建屋が建っていたであろう場所にて)

 

「そこで働く社員やスタッフにとって大きな負担」であった具体的な要素として、以下のようなものがありました。

 

セガカラ屋の存在

当時のセガが通信カラオケ事業を手掛けており、また有り余る店舗面積を埋めるために展開された「セガカラ屋」ですが、一般的ゲームセンターは風営法の営業時間規制で夜間は24時にて閉店するのに対し、セガカラ屋は建屋が同一とはいえ入口を別個に設けて風営法の対象外としていたこともあり、平日は25時(翌日午前1時)、週末や祝前日は29時(翌日午前5時)までが営業時間となっていました。

そのため、24時まで営業のゲームセンターにおける「早番(9時出勤)、中番(12時出勤)、遅番(17時出勤)」のシフト体系に加えて追加してカラオケが29時まで営業する日には「深夜番(20時出勤)」というシフトが存在。それを4人の社員で廻すのですが24時間操業の工場3交代勤務と大差ない勤務体系を強いられました。

しかも特にカラオケは慢性的なアルバイトスタッフ不足に見舞われており、特にピークタイムである週末の20時~24時付近で対応する人員を補うため、おおよそ早番や中番の社員が定時終了後フォローする状態が慢性化していました。9~24時程度の勤務はまだ体力があった当時は乗り切れましたが、今の年齢では到底対処出来る自信はありません。

 

また、カラオケは飲食を提供していたため厨房を備えており、調理及び客室への提供は社員及びスタッフが対応します。週末の夜間が忙しくなるのは結局飲食オーダーに対応する必要があるからで、前述した長時間勤務の要因になることもさることながら、ゲームセンター勤務における業務としては通常求められない調理作業や食材の仕入れや管理といった業務が発生しますが、専属の社員はおらず全てゲーム側と兼任して対応にあたる必要がありました。通常の店舗と比べると明らかに高い負荷を求められていました。

 

②慢性的スタッフの不足

ゲーム部分の規模はホリデイスクエアと大差なく、かつカラオケを抱えていたため、前述のように社員は総勢4人配置されていました。ホリデイスクエアは3人だったのですが、契約社員2名が在籍していたため実質5名体制で、かつアルバイトスタッフも充足していたため「人出不足」になる状況には殆ど遭遇しなかったのに対し、工業地帯が近く学生バイトが少ない地域でもともとスタッフの充足が難しい場所だったことも手伝い、ゲーム、カラオケ共に慢性的に人員が不足していました。

それに加え元テーマパークであることが起因する高い固定費負担のため、人件費に大きく予算を割けないことからスタッフを必要以上に抱えることが出来ないという構造的問題も抱えていました。

 

そして、慢性的な人員不足がもたらしていた副作用として「社員とアルバイトスタッフ間の関係」があります。スタッフが少ないと店舗を廻すために社員はどうしても既存スタッフに対して下手にならざるを得なくなり、一部には社員に対して高圧的な態度をとる者もいました。また協力してくれるスタッフに対してもその負荷に対して充分に報いているとは決して言えず、その状態が続いていることでスタッフが店舗運営に対して不満を募らせていることがはっきりと伝わってきました。

 

➂高い固定費がもたらすもの

いくら店舗運営に関する固定費が通常の店舗より高いといっても、それを理由に赤字となることは企業である以上は許してくれません。

必然的に売上を大きくするしかないわけですが、1990年台後半のコナミ音楽ゲーム全盛期において、セガコナミのゲームを店舗に導入出来ない環境でした。この状況は20年経過した現在においても大きくは変わっていないのですが…

そうなると結局は一般層がプレイするプライズゲームメダルゲームで売上向上を図ることになるのですが、特にプライズについては短期的に売上を増加させるため不人気な景品ブースの即入れ替えを続けていた結果、倉庫となっている2階部分に不人気景品として外された在庫が多数積み上がり放置されていました。

店舗の管理システム上に在庫として残っている以上、いずれは処理しなければならない訳ですが、プライズ機へ投入すれば売上が下がり、またサービス台のような形で放出すれば経費が嵩んでしまうため処理が先延ばしにされ続けていたのです。

 

一方ゲーム機においては、機器償却費が高い新機種を次々と導入は出来ないため、他店と機械をローテーションして目先を変えたり、倉庫在庫を引っ張ってきたりするのですが、その中には日本で数える程しか製造されなかった「セガ、ルーレットクラブDX」などという機械も含まれていました。

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セガ・ルーレットクラブDX パンフレット:画像はヤフオクから転載)

 

ゴージャスな見た目ですが内容はただのルーレットなのでゲーム性は乏しく、またセンサートラブルでしょっちゅうエラーを出し停止するため、製造台数も少なく倉庫に眠っていたのもさもありなんというタイトルだったのですが、少しでも店舗に変化を与えるためには手段を選んでいられない状況でした。

 

 

また、当時の店舗社員は基本的に会社が契約している住居へ入居するのですが、私と入れ替えになる前任者が使用していた住居がとてつもなく汚く、台所さえも土足で入らなければならない有様だったため、前任者が部屋から荷物を完全に撤去するまで私は自分の荷物を運びこめず、営業所倉庫に一時保管しなければなりませんでした。豊橋の時とはうって変わって仕事も私生活も過酷な状況となり、「とんでもない場所へ来てしまった」との思いを持たざるを得ませんでした。

 

その3へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド四日市ガルボ その1

1998年、セガワールドホリデイスクエアの閉店に伴い、次の赴任地となったのは三重県最大の街四日市市の「セガワールド四日市ガルボ」。市南側の工場地域に程近い場所に、イオンが運営する「パワーシティ四日市」というショッピングセンターがあり、そのテナントとして営業していました。

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2020年7月24日撮影

 

「犬も歩けばイオンに当たる」とまで言われていたかは定かではありませんが、三重県、特に四日市市はイオンの前身である岡田屋発祥の地で、市内の至る所にイオンの店舗が存在しています。

「パワーシティ四日市」もイオンの施設のなのですが、他のショッピングセンターと異なっていたのは、「パワーシティ」の名称が示すように当時米国によく存在した「パワーセンター」という形態で、ショッピングセンターにありがちな大型、多階層の建屋は存在せず、駐車場の周囲を各テナントの個別の建屋が取り囲むような施設となっており、セガも複数存在した建屋の中のひとつでした。

ja.wikipedia.org

パワーセンター」の参考資料。日本ではあまり一般的ではないですね。

 

写真では「イオンタウン」となっていますが、2011年に「パワーシティ四日市」から「イオンタウン四日市泊」へ施設名が変更されています。そして2018年に一旦営業を終了して施設の全面建て替えを行い、大型の建屋の周囲を駐車場が取り囲んでいる一般的なショッピングセンターへと模様替えして2019年に再オープンしています。

 

さて、このセガ店舗が特筆すべき点はその「四日市ガルボ」という名称。

セガのテーマパーク事業と言えば、現在もお台場にて営業が続く「東京ジョイポリス」が想像されると思いますが、商圏の大きな大都市では「ジョイポリス」の名称で展開していたのに対し、スケールを小さくした小型テーマパークを「ガルボ」の名称にて平行展開していました。

www.wizforest.com

flameheart.at.webry.info

セガのテーマパーク事業の展開経緯は上記「ガルボジョイポリス」が詳しいので、転載させて頂きました。「ガルボ」という名称では四日市以外に、テーマパーク事業1号店の大阪ATCと、千葉の市川に存在していた模様です。

 

しかし中途半端なコンセプトが市場には受け入れられず、私が赴任した1998年の時点では既にテーマパークとしての営業は終了しており、普通の大型ゲームセンターと化していました。

建屋は2階建てで、大型アトラクションが設置されていた2階フロアは完全に閉鎖されお客様が立ち入ることは出来ず、アトラクションの残骸やツール類が放置され倉庫代わりとして使用されていました。ゲームセンターとしての営業は1階フロアのみで行われていましたが、テーマパークから業態変更する際にフロアに手が加えられたようで、2階を封鎖しても埋めきれない広いフロアにはビリヤードコーナーとカラオケ店「セガカラ屋」が新たに設けられていました。

 

当時のセガアミューズメント施設は地域別で管理運営されており、中部地域は愛知県、三重県岐阜県及び福井県、石川県、富山県の東海並びに北陸地域の6県を管轄していましたが、テーマパーク事業はセガ本社の直轄事業だったため、四日市ガルボのオープン時は恐らく当時のセガ中部地域は関与していない施設であったと思われます。

それがテーマパークとして撤退し普通のゲームセンターとなるにあたり、直轄から中部の管理へ変更されるのですが、封鎖されている2階部分も含めた広大な店舗の家賃は(テーマパーク撤退時に当時のイオンと交渉はされたと思いますが)引き継がれ、また恐らくゲームセンターへの改装時費用やテーマパーク時代の設備除却費用といったコストが上乗せされていたため、固定費負担が重く非常に利益率が低い店舗となっていました。

 

この「元テーマパークであったがための過大な設備」が、私を含めて当時ここで働いていた社員やスタッフに対して大きな負担を強いることとなっていたのです。

 

その2へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールドホリデイスクエア その2

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2020年6月6日撮影(以下写真は全て同一日撮影)

 

エントリーその1で掲載した施設案内図の中で、現在「MEGAドン・キホーテ」になっている建屋がありますが、かつてそこはイトーヨーカドー豊橋店でした。

 

実はそのヨーカドー内2階にも「セガワールド豊橋」がショッピングセンター内店舗として営業をしており、同一敷地内にセガ直営店舗が2店存在するという珍しい場所でもありました。

 

このセガワールド豊橋、「セガワールド」の名称を初めて採用した店舗という話を聞いた覚えがあるのですが、真偽は定かではありません。

ショッピングセンターインストア店舗ということもありこちらは完全なファミリー向けで、プライズ機とメダル、あと子供向け乗り物(キッズライド)が中心の機械構成であり、ビデオゲームの類は皆無だったと思います。

 

社員間同士では交流があり、仕事終了後一緒に食事に行ったりしたことはありましたが、スタッフは完全に別々で管理されており、双方の店舗を掛け持ちしたりスタッフを店舗間で融通するようなことは殆どありませんでした。

 

話をセガワールドホリデイスクエアに戻しますが、前述したように建物の老朽化が著しかったこともあって建て替えが計画され、1998年に閉店を迎えることとなります。

そして1年度の1999年、「ホリデイスクエアアミューズメント棟」として新築された現在の建屋に、「セガアリーナ豊橋」及び「ソニックボウル豊橋」として再度オープンするに至ります。新たにボウリング場も併設され、そちらもセガの運営としてスタートしました。

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しかし、その1の写真で既にお気づきの方もいらっしゃると思いますが、現在の建屋には「TAITO STATION」の文字とインベーダーのロゴが踊っています。

 

これは2009年3月にて、セガからタイトーへ譲渡された店舗の中に「セガアリーナ豊橋ソニックボウル豊橋」が含まれていたためで、規模も売上も大きかったこの店舗が譲渡対象に入っていたことに驚愕した記憶があります。

 

ただ、店内を見る限りではセガ時代の内装がほぼそのまま使用されているようです。

隣のセガワールド豊橋も当初は譲渡対象店舗だったようなのですが、結局譲渡はされずにセガワールドのまま営業が続けられていました。2017年のイトーヨーカドー閉店まで営業されていたようです。それでも私が豊橋を去ってから20年間営業が続いていたんですね。

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さて、ホリデイスクエア閉店によりアルバイトスタッフの一部は近隣他店舗に移ったものの基本は雇用を終了、社員は全員他店へ配置替えとなり、私は三重県四日市市の店舗へ異動することとなります。豊橋での勤務は1年程度に留まりました。

 

閉店後の残務終了後、社員及び一部主力スタッフにて温泉旅行に行ったのは、日頃営業時間が長くまた定休日もないため、スタッフ総出でイベントを行うことがほぼ不可能なゲームセンターの勤務においてはなかなか出来ないことだったと思います。

 

それなりに楽しく仕事をさせてもらった豊橋時代ですが、四日市で最初に配属された店舗はうって変わって複雑な事情を抱えていた店舗であり、また当時のセガという会社の情勢にも翻弄される運命が待ち構えていました。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールドホリデイスクエア その1

時は1997年。

就職後名古屋へ配属された私は、その時求人広告紙に度々目を通していました。

 

良く新卒が会社を辞めるタイミングで「3日、3か月、3年」と言われますが、丁度3年目に突入していた当時の私には色々と魔が差していたのかもしれません。

 

その広告紙内に、セガの東海地域(愛知、岐阜、三重県)のエリア店舗社員の募集を見つけてしまった私は、それに応募して内定をもらい、アルバイトスタッフとして勤務してからおよそ4年振りにセガの店舗で今度は社員として働くこととなります。

 

当時名古屋市名東区にあったセガの事務所で数日の研修と店舗見学を経て、最初に配属されたのが豊橋市にあった「セガワールドホリデイスクエア」でした。

 

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2020年6月6日撮影(以下写真は全て同一日撮影)

このブログの「キャノン最前線&オレンジペコ その6」のエントリーで、「とある事情で北名古屋市から豊橋市に移った」と記しましたが、その理由は他でもなく、セガへ転職して豊橋市の店舗に配属されたためです。

 

写真の後方に高層建築物が見えていますが、これが当時は「ホリデイ・イン豊橋」というホテルで、その後「ホテル日航豊橋」→「ロワジールホテル豊橋」と経営母体と名称が変更されつつ現在も営業が続いています。基本はこのホテルを核とした商業施設なのですが、名前の元となったホリデイ・インが撤退後も施設名称は「ホリデイスクエア」のままとなっています。

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現在の施設入口サインポールと施設案内図。
写真に写っている情報に違和感を感じる方もいらっしゃると思いますが、その理由は追って説明します。

 

施設案内図で黄色にて表示されている、現在のアミューズメント棟は1999年に新築オープンしているのですが、新築前の同じ場所にセガワールドホリデイスクエアは存在していました。

 

その建物は元々スケートリンクとして使用されていたため、平屋の広いフロア(確か500坪程度)に異常に高い天井が特徴的でしたが、建物自体が1997年時点で相当老朽化が進んでいたため雨が降ると外壁部分から漏水、雪が降った際には漏水個所から店内に降雪が起こるというありさまで、店舗の気密性は最悪。また天井の高さも相まってフロアの空調の効きが極度に悪く、夏場はフロアの気温は普通に30℃を超え、冬場は20℃に届かないことからスタッフは特例として店内でもジャンパーを羽織ることが認められていました。正直客として長時間店内に滞在するのは厳しい店舗だったと思います。

 

営業的には商業施設内に立地している大型店ということもあり、当時のセガ東海地域管轄店舗においても売上は上位に属している基幹店でした。平日に比して圧倒的に売上が高い週末に訪れる一般客層がメインターゲットのため、プライズ機やメダルゲームが主流の「当時のセガワールドっぽい」機種構成でしたが、ゲーム好きな社員やスタッフが週末を中心に対戦モノやバーチャロンを中心としてゲーム大会を実施しており、ささやかですがゲームファンを呼び込もうという施策も行っていました。

まあ私は対戦モノを一切プレイしない人間だったので殆ど関与はしませんでしたがw

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また、敷地内に大型ホテルが立地していたため、夜間になると宿泊客の団体が店舗にやってくることが多々ありました。圧倒的に多かったのは外国人観光客で、インバウンドの概念が無かった20年前から外国人宿泊客の割合が大きかったのは、当時の「ホリデイ・イン」が収容力のある外資系ホテルであったこともそうですが、成田で入国した団体観光客が観光バスで京都等関西方面へ移動する際、豊橋という場所が東京と関西のほぼ中間に位置するため、中継地として選ばれやすかったことも起因していたようです。

 

当時の外国人団体で圧倒的に多かったのは中国系および中東系。

おおよそホテルカジノと勘違いして大騒ぎでメダルゲームをプレイし、最後に換金しようとカウンターへメダルを持ってくるものの換金出来ないため言い争いになるまでがセットで、換金不可の旨を説明するのが非常に面倒くさかった覚えがあります。日本だけですからねメダルゲームのシステムは。

 

こうして最初に配属されたセガワールドホリデイスクエアですが、大型店ということもあり事務専属のスタッフも在籍していたため伝票作成等の事務作業は専属スタッフが行い、アルバイトのシフト作成も別の社員の仕事だったため、営業時の金銭管理やスタッフ指導のような業務を除いては仕事内容はアルバイト時代とそれほど大きく変わったという印象はありませんでした。まだ入社したてだということもあり、他の社員の指導や監視が可能な店舗で仕事振りを確認しようという意図だったのだろうと思います。

 

その2へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 ハイテクランドセガシントク その2

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2020年9月3日撮影(以下写真は全て同一日時)

 

前回は店舗がオープンした頃の秋葉原事情の話が殆どでしたが、今回は実際の勤務や店舗内の話を中心に内容を進めていきます。

 

1992年11月新規オープンだったため、夏休みが明けた9~10月頃には採用面接を受けていました。建屋の5階事務所で数人単位で集団面接を行った記憶が残っています。

 

5階が事務所だったということから伺えますが、オープン時は地下1階~4階までが店舗として使用されていました。6階から上は立ち入った記憶はありません。当時のフロア構成は以下のようになっていました。

 

地下1階:ビデオゲーム

1階:プライズ機及び大型筐体

2階:大型筐体及びカーニバルゲーム(エレメカ系)

3,4階:メダルゲーム 

 

特に秋葉原という立地を考慮してフロア構成や設置機械が他のセガ店舗から大きく変更されるということはなく、当時の標準的な機種構成だったのではないかと思います。まだ秋葉原という市場が未知数だったということでしょう。

 

しかし前述したように、特に週末になると地下1階のビデオゲームコーナーには客があふれている一方で、2階のカーニバルゲームや3階、4階のメダルコーナーには人影が少ない状況が多く、秋葉原という市場で売上が期待できる機種の傾向がはっきりしてくるにつれ順次フロア構成も変化していったように思います。

 

とは言え私がスタッフとして働いていた期間には大きなフロア構成の変化に当たることはありませんでした。

日頃から別のゲームセンターへ通い詰めていた私はおおよその仕事の内容を把握していたため、他のスタッフの殆どが未経験の中で卒なく仕事をこなしていましたが、ハイテクノーベル神保町のアルバイト退職の影響でそちらからお声が掛かり、バイト先をノーベルへ移すことになります。そのためシントクでの勤務歴は半年程度で終了しました。

 

そしてこの記事をまとめるにあたり、先日20云年振りにセガ1号館に入店したのですが、当時は事務所だった5階を含め7階までがフロアになっており驚いたものです。「秋葉原史記事」のブログによれば2018年に大規模改装が実施されているようなので、その際にフロア化されたのでしょうか。

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現在のフロア構成は写真のようになっており、当然ながら私が働いていた頃と比較すると全く異なるものとなっています。

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(現在の2階フロア。オープン時はカーニバルゲームと一部大型筐体があったフロアです。)

オープン時のフロアだった1~4階までが全てプライズ機になっており、昨今のゲームセンターが何で売上を立てているのかはっきりとわかるフロア構成であり、30年という時間の流れを感じざるを得ません。

 

店舗がオープンした1992年当時は、最初のUFOキャッチャーブームが始まった頃とは言え、まだゲームセンターにおけるビデオゲームの売上比率が大きかった時代です。

しかしながら80年台には比較的ゲームファンに寛容であったセガナムコの直営店は、90年台に入ると一般層にアピールする方針から、急速にゲームファンを店舗から排除する方向へ舵を切ります。店舗のことを「ゲームセンター」と呼ばれることを忌諱し、内部では盛んに「アミューズメントセンター」と呼ぶように指導されていました。

 

余談ですが、結局「ゲームセンター」を「アミューズメントセンター」と呼ぶことは定着せず、ゲームセンターという言葉自体に以前のネガティブ感が薄れた現在はメーカーも普通に「ゲームセンター」という呼称の使用に戻り、「アミューズメントセンター」はむしろパチンコ業界が使用する呼称になっています。

 

そんな時代背景もあり、例え秋葉原と言えども市場は未知数であること、またオープン時のフロア構成を見てもわかるように特にゲームファンの集客は志向されませんでした。

ゲームファンやスコアラーを集客するためにコミュニケーションノートを設置したり、連射装置を取り付けるようなサービスは、フロアも大きくスタッフ数も多いため管理が出来ないことを含めてむしろご法度で、私も仕事は仕事と割り切って勤務していました。そのため仕事のオフ時やプライベートでは一切店舗には近寄らず、ハイテクノーベル神保町をホームとする日常には一切変化はありませんでした。仕事と遊びは別ということですね。

 

今回20数年振りに店舗の中へ足を踏み入れた状況からもお分かりいただけるように、スタッフを辞めた後もほぼ近寄らなかったシントクですが、退職後最初のうちは仲の良かった残留スタッフから店舗動向情報を入手する機会はありました。

その最たるものは、「秋葉原史記事」ブログ内にも記載されていますが、オープン翌年の1993年に起きた共同経営先のシントク電気倒産。建屋はサトームセンが購入しましたが、立地が良かったことと当時ですら建物の老朽化が目立っていたため、ゲームセンターは閉店して同じ場所に新たな家電量販店を建設する計画が浮上しているという情報を耳にします。

 

しかしながらゲームセンターとしての売上があまりにも良好だったこともありなかなか実現には踏み切れなかったようで、営業が続けられるといつに間にか建て替えの計画は霧散し、「ハイテクランドセガ秋葉原」「セガ秋葉原1号館」と名称を変えつつ30年近く経過した現在でも引き続き営業が続いているのは皆様ご存じの通りです。

 

この店舗の成功により、秋葉原はゲームセンターが商売として成立する場所という認識が広がったことで、現在セガが最大5店、またタイトーやレジャーランド、アドアーズ等がこぞってゲームセンターを出店する礎になったことは疑いのない事実でしょう。秋葉原の風景を変えることになったきっかけとなる店舗だったと思います。

 

そして私のアルバイトスタッフとしてのセガ勤務歴は半年程度で終了したのですが、その後4年後には再度、今度は社員としてセガに戻ってくることとなるのでありました。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 ハイテクランドセガシントク その1

ブログの冒頭説明書きにも記載しておりますが、私にはゲームセンターの中の人だった時期があります。1997年から2005年までのおおよそ8年間の間、セガ社員としてゲームセンター店舗運営職に従事いたしておりました。

 

ここから暫くは、そのセガ勤め時代の話にお付き合い頂ければと存じます。

 

東京の大学を卒業し、就職で名古屋に戻ったのが1995年、最初の会社を3年弱にて退職しセガに移ったのが1997年なのですが、実はその前に布石があります。

 

時は1992年。

当時大学2年生の私は神田淡路町付近でゲームセンターではないアルバイトを行っており、バイト先近くの「ハイテクノーベル神保町」をホームゲーセンとし、バイトの帰りは最寄の秋葉原駅から電車に乗って帰る生活を送っていました。

 

そのバイト帰りに偶々見つけたのか、ハイテクノーベル神保町の常連経由から情報を得たのか経緯ははっきりとは覚えていませんが、秋葉原に新規オープンするゲームセンタースタッフ募集に応募することになります。その店舗が現在も営業を続けている「秋葉原セガ1号館」、当時の「ハイテクランドセガシントク」でした。

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 2020年9月3日撮影

blog.livedoor.jp

上記「秋葉原史記事」ブログ内に秋葉原セガ店舗の歴史が刻まれており、「ハイテクランドセガシントク」はもともとこの建屋のオーナーで、この場所で家電量販店を営んでいた「シントク電気」とセガがゲームセンターの共同経営を開始したことがルーツとなっています。

 

当時のセガ店舗は、「ハイテクセガ〇〇」という名称と、「ハイテクランドセガ〇〇」という名称が混在していましたが、「ハイテクセガ」はセガが建物と賃貸契約を結んで営業する純然たるセガ直営店舗で、〇〇は場所を表していることが多い一方、「ハイテクランドセガ」の場合は店舗オーナーが別に存在するセガとの共同経営店舗で、〇〇は店舗オーナーに関する文言が入る場合が多かったように記憶しています。そのルールにのっとり、店舗名称に「シントク」の名前が入っていたものと思われます。

 

オープンした1992年当時は、まだ秋葉原が純然たる「電気街」だった時期ですが、石丸電気サトームセンを代表とした大型家電量販店がまだ幅を利かせていた中、シントク電気は家電量販店としてはマイナーな存在で、この頃から徐々に増加してくるサブカルチャー路線の店舗増加と歩調を合わせるかの如く、セガと組んでゲームセンター運営への業態変化へ舵を切ったという状況が想像されます。

 

しかし当時は家電量販店だけでなく、秋葉原に多数存在していた電気、電子関係の商店や、増加傾向にあったPC、ソフトショップ等も18時を過ぎると次々と営業を終了し、20時を過ぎる頃には営業している店舗はほぼ皆無。まるでゴーストタウンのような光景が広がっていました。

 

そんな中では遅くまで営業している飲食店も少なく、付近のオフィスから退勤する人々もシャッターを下ろした店舗ばかりの電気街を素通りして駅へ向かうだけだった当時の秋葉原でゲームセンターをオープンさせるということはかなりのチャレンジだったのではないかと思います。

 

そのような当時の秋葉原の夜間事情が考慮されたのか、オープン当初の営業時間は10時~22時までであり、都心部にありながら24時まで営業をしないという非常に稀有な店舗でした。

 

私はここでのアルバイトシフトの殆どを遅番でこなしましたが、実際オープンしたての頃は20時を過ぎると特に平日の店内は都心部の店舗とは思えないほど閑散としていたものです。しかし平日夜間の閑散っぷりとは裏腹に、週末の昼間は秋葉原に徐々に集積しつつあったサブカルチャー系顧客の集客に成功、まだ電気街のメインストリートである中央通り沿いには他のゲームセンターが一切存在しなかったため、秋葉原に最初に出店したガリバーとしての恩恵を存分に受けることとなります。

 

特に地下1階のビデオゲームコーナーはフロアを歩き廻ることさえ困難なくらいごったがえすこともありました。セガとシントク電気の目論見は見事に的を得ることとなります。

 

その2へ続きます。

私のアーケードゲーム履歴書 エレベーターアクションリターンズ

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タイトー 1994年発売

 

1983年に発売された初代エレベーターアクションのリメイクタイトル。

初代は1983年当時ではかなりヒットしたタイトルでしたが、一回りに近い年月が経過していたこともあり、続編ではなくリメイクとしてリリースされました。タイトーアルカノイドが成功したこともあってヒット作のリメイクには積極的でしたね。

画面の色使いや音楽のせいでコミカルチックな印象があった初代と比べると、こちらは完全に硬派に寄せた造りになっており、ゲームシステム以外は全く別物といっても過言ではないでしょう。

 

半面派手さには欠けていたため、初代ほどヒットしたという感じはしなかったのですが、現在でも地味に稼働している店舗が残っているタイトルではないかと思います。

分かりやすいゲーム性と、低めの難易度で比較的長時間遊べることで支持されているのではないでしょうか。インカムとしては微妙なのでしょうが...

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ゲーム内容は「ギミックが増えたエレベーターアクション」です。

Aボタンでガンを発射、Bボタンはジャンプ、AB同時押しで手榴弾を投擲、また敵と至近距離の場合は近接攻撃となり敵を殴り倒します。

 

この「近接攻撃」が稼ぎにはとても重要で、ガンでは2発以上ヒットさせないと倒せない耐久力のある敵も一撃で倒せます。

そのため、近接攻撃で1,000点を獲得できる敵が一定間隔で湧いてくる扉の前でスタンバり、クリア可能な残り時間まで粘って稼ぐ。正直重要な稼ぎはこれだけです。

 

そしてハイスコアは初回集計で999,999点のカウンターストップにて終了。そのためスコア的には盛り上がりに欠けるゲームとなってしまいました。

自分は初月にカンストが間に合わず、全国〇名様とは言えトップを取り逃しています。

 

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ゲーメスト 1995年6月30日号より)

 

 タイトル画面は1994年の表記なのに、集計がされたのは1995年6月30日号と半年も経過しています。開発進捗や販売の都合でタイトル表記と実際の稼働開始時期が異なる場合は時折ありますが、半年もずれたのは何か理由があったのでしょうか…

 

以上、エレベーターアクションリターンズは終了。

今回追加タイトルはこれで打ち止めです。また取り上げたいタイトルがありましたら随時紹介することにします。