小人閑居して不善を為す chapter3

一介のプレイヤーからハイスコアラー、そしてゲームセンターの中の人を経てアーケードゲームと関わること40年以上、その普通とはかなり異なるゲーマー人生を回顧するべく記事を綴っております。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド上田 その3

私が赴任した当時は、その2で記載したように明らかにファミリー向けに寄せていたセガワールド上田でしたが、2階のビデオゲームコーナーにはあまり普通のセガワールドに設置されていなさそうなオールドタイトルがいくつか稼働していました。

 

そのタイトルは、契約社員及びスタッフの一人が許可の上基板を持ち込み稼働させていたもので、当時のセガ直営店舗ではまず見られない光景でした。前任店長はあまり関与していなかったようです。

そのスタッフが、現在上田市中心部でオールドゲーム中心のゲームセンター経営を行っている、と言えばピンと来る方もいらっしゃると思います。店名は敢えて伏せておきます。

 

オールド基板を持ち込み稼働させるような契約社員及びスタッフが、私の元スコアラーという素性を知ることにそれ程時間は掛かりませんでした。こちらから喋った記憶はないんですけどね。

その情報はスタッフを通じて、以前にプレイシティキャロット松本店にてスコアラー活動を行っていた上田在住のプレイヤーに伝わることとなり、彼の方から私に声を掛けて下さいました。これが今でも続いている松本勢との出会いになります。

当時は既に松本キャロットは閉店後だったため、店舗へ伺うことは叶いませんでしたが、松本組の皆様を紹介頂いてからは定期的に上田の面子と一緒に松本へ遊びに向かうようになります。

 

また、スコアアタックについても基板持ち込みが暗黙で許されていたため、上田のプレイヤーが当時スコアを狙っていた「セクシーパロディウス」を用意してもらい実際に店舗からアルカディア個人申請で全国トップが生まれたり、「式神の城2」を確保した後にはコンバータを付けて外部機器持ち込みで録画可能な環境を整えたりしました。今から思えば結構やりたい放題やっていました。

 

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(画像は(株)哲信クリエイトサイトより転載)

そして店舗から生まれた全国トップスコアタイトルがもう一つあります。それが「アウトラン2SP」で、2005年にハートアタックモードにて個人申請による全国トップが確認されています。

これにはバージョンアップ前の「アウトラン2」の頃から布石があります。

アウトラン2はリリース当時2台がセガワールド上田へ導入されましたが、初代アウトランタイトルホルダーの方を始めとして複数のガチプレイヤーにお集まり頂き、台アベレージ売上が全セガ導入店中2位という快挙を成し遂げます。

仕舞には他店で稼働していた2台も移設され計4台体制に。台アベレージ売上は下がってしまったものの移設前の店舗と比較すれば倍以上のアベレージを叩き出していました。ガチ勢のプレイを見た頭文字Dプレイヤーがこぞってアウトラン2もプレイし始めた光景が印象的で、「上手い方のプレイは相乗効果を引き出す」ということを実感したゲームタイトルでした。

 

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ハイテクエンタテイメントアーサー跡地 2020年7月23日撮影

また長野県に赴任する前に、オレンジペコ常連の伝手で飯山市のハイスコア集計店「ハイテクエンタテイメントアーサー」に遠征する機会がありオーナーと面識があったのですが、上田へ赴任して挨拶に向かい以後オフになると度々遊びに行くようになりました。豊橋四日市なら気晴らしに名古屋へ遊びに行くことは容易でしたが長野となるとそうはいかないため、いくら一人の気ままさが好きとはいえ店舗や地域の環境に慣れていない時期には飯山に行くことで随分と助けられた気がします。

 

このように、これまでのセガ在籍5年弱の期間で元スコアラーであったことが人間関係に影響したことはほぼ無かったのに対し、一転して上田ではそこから生まれた新たな縁がかなりありました。おかげでこれまでの人生で無縁な地域だったにも関わらずプライベートでは殆ど寂しい思いはせずに済んだと思います。

 

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コインスナックM&M跡地 2020年7月25日撮影

 

また三重勤務時のオフにどっぷりと嵌っていたパチスロは、上田へ異動後は行き付けホールを探そうと思慮しているうちに全く行かなくなりそのままフェードアウト。代わりにMJが全国対戦バージョンにアップグレードするとそちらにシフトし、オフの日のゲームセンター通いが復活しました。

初代MJの時は設置店舗数が少なく、オフの日に店長自ら自店でサテライトを占領する訳にもいかないので、長野・佐久・松本・穂高・辰野といった県内設置店だけではなく、群馬の高崎、山梨の双葉、新潟の十日町まで遠征して打ちに行くような生活。MJ2以降になると設置店も増えたため県外まで出向く必要はなくなりましたが、それでも自宅から車を30分程度走らせた場所にあった小県郡丸子町(当時)の「コインスナックM&M」に午前中から向かい、夕方まで遊ぶと近くの温浴施設に行って風呂と食事を済ませ帰るようなオフの過ごし方が増えました。結局は一人が苦にならなくなるんですね。

 

その4へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド上田 その2

店舗の客層については、ツタヤが併設されていたためセットで来店するファミリー層や社会人層が客層の多くを占めており、前任店長も自らバルーンアートを店先で行い店頭で配布するようなファミリー層向けの集客・サービス策を積極的に行っていたため、一般客層は比較的盤石な反面固定客層が弱いという印象を持った私は、固定客層の開拓を中心に取り組むことになります。

まず着手したことは、「製品をきちんとアピールすること」でした。

  

「ゲームセンターが製品であるゲーム機をアピールすること」は当然なのですが、スタッフが少ない店舗で日常業務に追われているとその当たり前を行う余裕が無くなったりします。

セガワールド上田の赴任当時の勤務スタッフに関する環境ですが、ここには赴任時に既に契約社員が2人在籍しており、日常業務の大半を契約社員に任せておける状態でした。スタッフの絶対数も当初はそこまで余裕はありませんでしたが、程なくして仕事に穴を開けがちだった1名が退職し、前後して採用したスタッフが定着してくれたお陰でスタッフの不足に悩まされることも殆ど無くなったため、集客策を色々と実施することが出来たのではないかと思います。

 

手始めに、地元の学生層が駅前のゲームコーナーにて対戦格闘ゲームに勤しんでいるという情報を入手したため、こちらへも足を運んで貰うべく基板もの新製品の入荷告知POP掲示や曜日別のクレジットサービスを実施します。

すると徐々に対戦格闘ゲームを遊ぶ客層が増加し、それなりの数字を残すようになってきました。

追って閉店となった長野市の店舗から女性契約社員か移籍してくるのですが、彼女が対戦格闘ゲームに造詣があったため、彼女に実施運営を任せて最終的には定期的にゲーム大会を開催するまでに至ります。

ギルティギアのレディース大会とかやってたな…異質の文化を目撃した気分でしたw

 

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(画像は以下サイトより転載 

頭文字Ⅾ:(株)哲信クリエイト

WCCFセガ公式 

MJ: パンフレットで見るアーケード探訪:セガ四人打ち麻雀 MJ | 電脳世界のひみつ基地

 

また、私が赴任した2002年は、2020年の現在においてもシリーズタイトルが継続している「頭文字D アーケードステージ」「ワールドクラブチャンピオンフットボール(WCCF)」「セガネットワーク対戦麻雀MJ」の初代作が登場した年でもあります。まだアーケードゲーム業界が非常に元気だった時代です。

 

どれも一時代を築いただけに、ただ設置しただけでも相応の売上を稼ぎ出すタイトルでしたが、少しでも差別化に繋げるべく以下のような施策を行っていました。

 

 ・頭文字D

ゲームの特性上、自然発生的にプレイヤー同士の対戦が盛り上がるのを受け、対戦大会を頻繁に実施しました。実況は全部自分が担当しましたが、最初は車種を覚えるのに苦労した記憶が蘇ります。

しまいには大会終了後のプレイヤー同士の飲み会に同席させて頂いたりもしました。私自身はこのゲーム1回もプレイしたことないんですけどね…

 

WCCF

ゲームの斬新さに対して、スターターパック購入の必要性などゲームを始めるにあたってのハードルが高い一面もあったため、チュートリアル的なスタートガイドを設置しようとネットを漁っていた所、当時のセガ心斎橋GIGO(大阪)で店内POPを専属で作成しているスタッフの方が開いているPOP作成請負のサイトを偶然発見。ガイドについて作成をお願いした所快くお引受け頂けました。先方もまさか現役のセガ店舗店長から依頼が来るとは想像していなかったと思います。

もちろん有償です。私の一存で行ったことなので経費ではなく自腹です。

セガを去った時に、そのPOPは筐体へ残して行ったため手元にはありません。1枚くらい控えを残しておけば良かったかなと今になって後悔しています。

 

・MJ

ダービーオーナーズクラブの改造から最初に設置された時には、まだオンライン対戦機能実装前の店内対戦しか出来ない代物で、ついているお客様はまばら。既にオンライン対戦を実装していた麻雀格闘俱楽部との差は歴然としていましたが、程なくネットワーク対戦Ver.にアップグレードした後は飛躍的に稼働が上昇しました。テストプレイ時に同卓者の店名が画面に表示された時には軽く感動したものです。

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(画像はセガMJ2サイトより転載)

現在も続いているMJシリーズはICカードを使用して個人情報を保存していますが、初代MJはダービーオーナーズクラブからの改造だったため磁気カードを使用していました。

店舗用のマニュアルを読むと、「大会モード」というのが存在し、そのモードで優勝すると上記画像のように磁気カード表面へ戦績を記載する機能があることを知った私は、それを生かすべく早速店内対戦大会を企画します。

この機能を使用したことのある店舗は殆ど存在しなかったのではないでしょうか。

 

センターモニターに参加者の手持ち牌がライブで映し出されてしまうので、センターモニターを切った上で対戦台を作成する際のモニター分波用キットを使用して映像を参加者からは見えない別モニターへ映し出し、キャラリーの方と画面をニヤニヤしながら見守る光景はなかなかシュールでした。盛り上げが必要なゲーム大会でキャラリーに対して黙るよう案内をしたのは後にも先にもMJの大会のみでした。

 

 

また、セガにおいてこれまで元スコアラーであることがお客との関わりを生むことはほぼ無かったのですが、上田ではとある理由で素性が割れたことにより生まれた縁があります。次回はその辺りの話を中心に記載したいと思います。

その3へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド上田 その1

私がセガへ入社した1997年当時、セガアミューズメント事業は当時のセガ・エンタープライゼス本体組織の一部であり、東海及び北陸の計6県の施設を運営する組織として名古屋市に「中部地区」が設けられていました。

 

それが2000年10月に、全国の施設を5地域に分割し各地域毎に管理運営を行う分社化が実施されます。

分割された5地域はそれぞれ「株式会社セガアミューズメント東日本/東京/東海/関西/西日本」として独立し、旧中部地区は「セガアミューズメント東海」として出発するのですが、他の地域と比較して管轄エリアが狭かったためか、旧西関東地区に属していた静岡県及び長野県についても、セガアミューズメント東海が管轄することとなります。

 

分社化当時セガワールド生桑に勤務していた私は、当然にしてセガアミューズメント東海所属となるわけですが、次の異動を命ぜられた店舗が、新たに東海のエリアとなった長野県の「セガワールド上田」でした。

 

私の前任店長がセガを退職することとなり、後任として私が赴任することとなったのですが、当時の社長が「あいつは一人で放っておいてもなんとかなるだろう」と考えていたことが私が人選された理由だったようです。

都心部に立地する店舗だと、周囲に別のセガ店舗もあるため社員間で交流したりする機会がありますが、長野県のような地方となると隣接するセガ店舗まで片道車で1時間以上とかがざらになります。

そうなると地域に縁のない社員は仕事がオフの日もアルバイトスタッフと遊ぶ位しかすることがなく、その環境に耐えられなくなって退職に至る場合が結構あったようですが、オフの日も一人で勝手に過ごしていた私はその心配はされていなかったようですw

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2020年7月25日撮影(以下写真は全て同一日撮影)

 

こちらも店舗は現役。生桑と同じく現在はセガワールド上田からセガ上田へと名称が変更されています。

 

店舗の目の前を走っている道路は国道19号上田バイパス。市街地からは離れており、中心部の上田駅からだと千曲川河岸段丘を徒歩で延々と登って約30分程度掛かり、店舗裏手から先は山に分け入るような場所に位置しています。

敷地にはセガの他に、ツタヤが同一建物で隣接。また現在リサイクルショップが入居している建屋には私が在籍していた当時はコートダジュールというカラオケ店でした。その他ローソンと中古ゴルフショップが立地しているのは当時から変化はありません。

 

店舗は2004年に増床及び改装工事が実施されており、現在は改装後の姿となっています。この改装には私も当時の店長として大いに関わっているため後述します。

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現在の1階フロア。プライズ、プリクラ及びキッズカードゲームコーナーが展開されています。以前は大型筐体タイトルや、初代三国志大戦のようなキラータイトルを設置していた時期もありましたが、現在は完全にファミリー向けにて統一されています。

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2階は改装前からビデオゲーム及びメダルゲーム中心。改装後も構成に変化はありませんが、大型筐体ものは現在は全て2階に設置されています。

 

既に改装後15年以上の歳月が流れているのですが、時間の経過の割には店内が綺麗に保たれている印象を持ちました。日々の清掃業務の賜物でしょうか。

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また、普通の2階建て建屋の店舗と異なる点として、2階にも入口が設けられています。

写真は2階入口を外から映したもので、入口前は駐車場となっています。丁度ツタヤのフロアの真上部分に当たります。

店舗裏手山側の傾斜がきつくなっていることを利用して、ツタヤの脇から坂道を伝って車で乗り入れられるようになっており、実質セガ専用の駐車場となっていました。2階設置のゲームタイトルが目的のお客様は最初からこちらに車を留め置く方が多かったようです。

 

その2へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド生桑 その3

さて店長としての職責ですが、これまでは複数社員が常駐する店舗だったため社員間で職務を割り振りしていたのに対し、セガワールド生桑では常駐社員は店長のみとなり、また契約社員も存在しなかったため、社員として必要とされる職務は全て自分が対応する必要がありました。

 

職務はおおよそ以下の内容に分類されます。

 

①金銭管理(集金業務、金融機関への入金、両替機対応)

②建物オーナーや近隣テナントとの折衝

➂スタッフ管理(シフト作成や人件費管理)

④機材(機械、基板、部品等)、在庫(景品等)管理

 

細かい業務を含めればもっと多様になりますが、概ね上記のカテゴリーに分類されるのではないかと思います。

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セガ製高額紙幣対応両替機 DP-22000(画像はヤフオクより転載)
 

①の金銭管理ですが、事故防止の観点からセガはアルバイトスタッフに金銭を極力触らせない方針だったので、社員が全て対応します。

 

集金は定期的に実施する必要があるため、社員1人勤務の店舗は基本的に長期の休暇は取れません。

 

両替機への金銭補充等はアルバイトが対応するゲームセンター運営会社もありますが、セガはスタッフが両替機を触れるようになるためにはアルバイトランクのステップアップが必要で、それには営業所長の面談を要するためそこまで到達している人数はさほど多くなく、結局は社員が対応していた店舗が圧倒的に多かったと思います。

この両替機対応が日常業務としては最も厄介で、勤務終了後やオフの日といった社員不在時にトラブルが発生した場合、お客様を待たせるわけにはいかないためスタッフでも扱える少額の両替金を用意してお客様へお渡しするのですが、最終的に社員が店舗へ出向いて両替機を復旧させなければなりません。

千円紙幣を百円硬貨へ両替するだけの機械のトラブルであれば、店内に他の両替機があるためそちらで代替してもらうのですが、万券や五千円紙幣対応の両替機は台数が少なく長時間停止させてしまうと影響が大きいため、トラブった場合はほぼ確実に携帯電話が鳴ります。何度呼び出されて店舗へ向かわざるを得なかったかはあまり考えたくありません。

 

両替機の内部は定期的に確認するのですが、退勤前やオフの前日は呼び出されることを防ぐため硬貨や紙幣の残量をチェック、特に排出口への紙幣つまりが最も多いトラブルのため、極端に皺が多い紙幣はあらかじめ取り除いたり、紙幣の量が多すぎても詰まる原因となるため需要を予測して適切な量を投入しておくといった努力が必要となります。それでも完全には防げないのですが。

 

また、時折現れる「両替金額が一致しない」との申し入れの対応は更に面倒なことになります。

紙幣→硬貨の両替では両替金差異の申し入れは殆ど発生しないのですが、高額紙幣両替の場合、「五千円紙幣を投入しているのに万券を投入したつもりの方」「高額紙幣を両替したのに硬貨しか受け取らず、千円紙幣を取り忘れた方」が定期的に現れます。

大抵は「お客様の勘違い、払い出し紙幣の取り忘れ」をご説明してお引き取り願うのですが、稀に納得行かないという方がいると、該当両替機の中身金銭を全て取り出し、管理帳簿上の両替機内投入金額と差異が無いかを確認します。両替なので内部の金額が変化することはありませんから(メダル貸出機兼用両替機の場合は当日の貸し出し売り上げを差し引いて確認)、確認の結果内部金額に変化がないことをお伝えしてお引き取り頂きます。

まだお客様の勘違いであれば良いのですが、詐欺行為でわざとクレームを付けてくる輩もいるため、面倒ですがトラブル時の両替機中身の確認は行わざるを得ないのです。

 

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2020年7月24日撮影

 

そして➂の「店舗スタッフ」に関する業務。

 

サービス業全般に言えることですが、社員だけでは日常の店舗業務は廻せないため、アルバイトスタッフの力を借りることになります。

限られた人件費枠の中でスタッフの希望を反映しつつ店舗勤務シフトを作成する...サービス業の現業を経験すれば誰もが通る道ではないかと思います。

在籍スタッフ人数と各スタッフの希望(勤務日数や給与額)が上手く嚙み合っていれば、シフト作成はある程度ルーティン作業に近くなり頭を悩ますことはありませんが、おおよそどの店舗もそこまで余裕のある人員を抱えている訳ではないため、人数、スタッフの希望のどちらかが狂うとたちまち人手不足に直面することとなります。

そうなるとスタッフの穴を社員が埋めなければならないため、公休が取得できない、開店から閉店までの通し勤務を強いられるといった状況が多発し社員が極度に疲弊してしまう光景が時折発生しており、何としてもそれだけは避けたいと思っていました。

 

生桑は総勢10名程度のスタッフで店舗を廻しており、学生スタッフの卒業時期などで一時的に不足することはあったもののスタッフが明らかに足りていないということはそれ程ありませんでした。

ゲームファンをある程度店舗に囲い込んでいると、その中で結構スタッフになってくれる方がいるので助かるんですよね。また採用したスタッフは大抵真面目に仕事に取り組んでくれたのでそこは恵まれていたと思います。

 

 

そうして初めての店長業務も大過なく2年が経過しました。

1年程度で異動を重ねる社員も多い中、2年は当時としては比較的長い在籍期間だったようです。ガルボと合わせて3年半程度過ごした三重県四日市市の次に赴任地として指定されたのは長野県上田市でした。

 

あれ?セガの東海地区は東海3県(愛知、岐阜、三重)および北陸3県(福井、石川、富山)だったのでは?

 

そこで長野行きを命ぜられた経緯を含め、次回からはセガにおけるの最後の店舗となる「セガワールド上田」勤務時代を取り上げます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド生桑 その2

店舗の客層としては、周囲にロードサイド店舗が林立しているもののセガ自体は実質ほぼ単独店舗だったため、ショッピングセンター内店舗のような「ついでに立ち寄った」という客層はそれほど多くなく、かつ中心市街地からも遠く付近に学校も少なかったため学生もそれほど多くはありませんでした。

 

一方周囲に競合店はほぼ無く、四日市ガルボも含めて大型店があった市南部へ行くには中心部の渋滞を抜けていく必要があったため、店舗近隣である四日市市北部や西部を中心とした固定客層が多くを占めていました。

その立地が幸いし、20年が経過した現在でも店舗が存続しているのではないかと思います。

 

一見さんや学生が少なかったため、プライズ機やプリクラの売上比率は平均的なセガワールドに比べると低く、反面ビデオゲームメダルゲームの比率が高い店舗でした。そのため基板もののビデオゲーム新作は比較的優先で割り当てられました。

当時はまだシューティングゲームが定期的に発売されていたため、入荷したサイヴァリアギガウイング2辺りを仕事のオフ時や勤務前にプレイしていたところ、「あそこの店長シューターだから」と当時の2chにカキコされたりしたものですw

 

またバーチャロンについては広域的に固定客が集まっていたため、後にスタッフとして採用したプレイヤーを中心にゲーム大会を実施したりもしました。

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2020年7月24日撮影

汎用ビデオゲーム筐体を一切設置していない店舗が多数を占める中、僅かに当時の面影を残すコーナーが設けられています。

あまり食指が動くタイトルはありませんでしたが…

 

これまで勤務した2店とは客層も比較的異なり、また店長という立場であったこともあり、ミスタードリラーに連射装置を付けてみたり、コナミ音ゲーが入荷出来ないため倉庫で眠っていたパカパカパッションスペシャルの基板を確保し、アストロシティ用専用コンパネが無いため営業所に談判してコンパネパーツを購入してもらい店舗に投入するなど、多少マニアックな方向にも食指を伸ばしたりしていました。

パカパカパッションの件など、プレイヤーの側から見れば専用コンパネが「付いていて当たり前」なのですが、当時のセガ店舗にはそれを理解する人間が少ないためクイズコンパネで稼働させたりすることを平気でやっていたんですよね。確かにボタン4つなのでプレイ出来ないことはないのですが、ゲームを知っている方から見ればクイズコンパネが付いている時点でコインを投入する意欲は湧かないでしょう。

 

結局は「分かる人間が店舗に勤務しているか否か」でビデオゲーム系の商品価値って大きく変わったりするのですが、そこに目を向けたとしても得られる売上の向上は正直微々たるものです。

反面、必要以上にマニア層が店舗に集まると一般客層を遠ざけてしまうこと、また限られた労力を振り分けるのであればプライズやメダルに振った方が売上向上の効果が大きいため、店舗運営側としてはどうしても対応が消極的になります。

店長という「店舗を預かる立場」からすれば数字に縛られるのは当然なので、元スコアラーとしてビデオゲームに注力をすることは叶わなかったのですが、他の一般客層と干渉しないように店舗内のゾーニングに配慮したり、メンテナンスに気を使ってみたりとささやかではありますがプレイ環境の向上を心掛けていたつもりではあります。

 

 

だた、三重県に勤務していた時は自分が最も「プレイヤーとして」アーケードゲームから離れていた時期だったのではないかと思います。

四日市ガルボに赴任した頃には既に名古屋のホームであったオレンジペコは閉店していたため、オフの日に名古屋へ遊びに行く最大の動機は元オレンジペコ常連との呑みかもしくはパチスロ。2000年夏まで三重県は全国で唯一パチスロが認可されていない県で、打つためには隣の愛知県まで足を運ぶしかなかったのです。

 

それが2000年夏になると、三重県に正式にパチスロが認可されます。

その時のお祭り騒ぎはもはや伝説級で、パチスロを知らない地元民のために高設定で設置された台を全国からスロプロが漁りに来るという状況が繰り広げられていました。対策で「三重県に在住していることを証明する書類」の提示をホールが求めると住民票まで移してしまう猛者も居たと聞きます。

 

そのお祭り騒ぎの最中に三重県に住んでいた私は、オフの日は朝から晩まで、仕事も早番の時は終了後に連日ホールに通うという生活を送っていました。そのためゲームは完全に二の次で他のゲームセンターへ顔を出すことも余りなかったため、元スコアラーという素性は全く悟られず、地元のプレイヤーとの交流もほぼありませんでした。そこは少々残念な点ではあります。

 

余談ですが、三重県のパチンコ店でもう一つ有名なのが、「大晦日から元旦にかけての深夜営業」で、これはパチスロ認可前から行われていました。

伊勢神宮へ向かう初詣客にトイレを提供するという名目で営業が許可されていると当時から伝え聞いており、パチンコ情報サイト等にもそのような記載がされていますが、本当の理由は定かではありません。

pachiseven.jp

一度大晦日の遅番終了後に覗きに行ったことがあるのですが、深夜のためアナウンスや音楽は一切流されていない店内で、満員の客が黙々と台に向き合っている光景はかなり異様でありました。正月でめでたいのに殆どの台が出てなくて客の目は一様に死んでいるという…

 

その3へ続きます。 

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド生桑 その1

豊橋ホリデイスクエア、四日市ガルボとセカンド社員として勤めること約2年半、丁度2000年に入った頃に初めて「店長」として赴任することになった店舗が今回から紹介する「セガワールド生桑(いくわ)」です。場所はガルボと同じく四日市市内ですが、市の南側にあったガルボに対して市の北西部に位置しており、同じ市内とは言え距離は結構離れていました。

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2020年7月24日撮影(以下写真は全て同一日撮影)

 

これまでの2店と違って現役の店舗です。

四日市市の中心から北西方向へ伸びる国道365号を車で15分程度進むと、現在は「おふろcafe湯守座」となっている「ユラックス」という温浴施設があり、その敷地に隣接しています。国道からは分かりにくく、店舗手前の県道を通らないと見つけにくい場所と思います。

付近にはスーパーやドラッグストア、飲食店等が連綿していますが、ショッピングセンターのようにまとまっている訳ではなくそれぞれが独立した店舗。セガも飲食店や消費者金融の自動契約機と敷地を同じくしていますがいずれも小規模で、郊外の店舗にありがちな複数のテナントが入居している施設ではなく、ほぼ単独に近い店舗となっています。

 

建屋は20年前と同一ですが、2002年に一度リニューアルが実施されています。私は改装前に別の店舗へ異動したのでこの改装には関わっていないのですが。

リニューアル直後の姿が記録されているブログがありました。

blog.goo.ne.jp

リニューアル時に建屋の1,2階全てがゲームセンターとなっていますが、改装前は2階フロアの南側半分はカラオケ店となっており、ゲームは1階及び2階の窓がある北側半分のみでした。

カラオケ店は建物のオーナーが直接運営していたためセガは無関係でしたが入口は正面で共通しており、店内階段を2階に上がると左右に分かれ、左側はセガのメダルコーナー、右側はカラオケのカウンターがある構造となっていました。リニューアル時にカラオケ店は撤去され、2階フロアも全てゲームフロアとして生まれ変わり現在の構造となっています。

その後セガのCI統一戦略により「セガワールド生桑」から「セガ生桑」に店名が変更され、現在の外装に落ち着いていますが、セガワールド時代のロゴやソニックの絵柄があった時の方が雰囲気が良かったんじゃないかと感じるのは決して私だけではないと思います。

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丁度階段からかつてカラオケ店だった場所を望みます。

カラオケ店が存在していた時の店舗面積がおおよそ当時のセガワールドにおける標準的な大きさだったのですが、元カラオケ店部分をゲームエリアとしたことで比較的大きな面積の店舗となりました。

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現在の1階プライズコーナー。1階はプライズの他にプリクラ、音ゲー全般及びスターホース以外のメダルゲームが設置されています。

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2階全景。2階はビデオゲーム、ネットワーク系専用筐体、そしてスターホースという構成。現在はフロアの雰囲気で設置機種を分けているようです。

 

私が赴任していた時期は改装前のため2階は現在の半分の面積しかなく、2階はメダルゲームにて完全に固定し、プライズ、プリクラ、ビデオ、大型筐体といった他のゲーム機は全て1階に設置するという構成でした。

しかし店舗外観写真を見て頂きたいのですが、店舗正面が西向きであり、午後から夕方にかけて西日が直撃するため画面もののゲーム機をガラスに面した場所に設置することが難しく、店内をゾーニングするのにかなり苦慮した覚えがあります。それに比べると現在の店内はスペースを持て余し気味な気もしますね。

 

その2へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド四日市ガルボ その3

店舗として過酷な環境にあったセガワールド四日市ガルボですが、更に当時のセガという会社の情勢が追い打ちを掛けることになります。

 

元々この「四日市ガルボ」という施設そのものが、「テーマパーク事業」というお世辞にも成功したとは言い難いプロジェクトの副産物であり、そこで働く社員やスタッフはその尻拭いをさせられている格好ではありましたが、加えて当時の家庭用ゲーム戦線でプレイステーションの後塵を拝していたセガが繰り出したこのハードの影響を受けることになります。

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sega.jp

(画像は「セガハード大百科」から転載)

 

そう、1998年に販売された「ドリームキャスト」、セガが最後にリリースした家庭用ハードウェアです。

 

私が四日市へ赴任したのが1998年秋頃なので、その数か月後には発売が開始されます。セガのアンテナショップとしてゲームセンターにおいても各種販売促進ツールが提供されました。

しかし、アーケードゲームメインのブログのため詳細は割愛しますがその結果は知られている通り惨憺たるものとなり、セガ本体は1998年3月期から赤字決済へ転落。その影響はコンシューマーとは関係ないゲームセンターの現場へも容赦なく襲い掛かってきました。

 

1999年に入り、店舗社員に人事部から通知か来ます。

内容は「希望退職募集のお知らせ」と、それに付する割増退職金支給要件、及び退職後のキャリア形成支援プログラムであり、かつその申し込みについて所属上長の許可は必要ないというものでした。とどのつまりリストラです。

 

当時の私は「エリア社員」という立場でした。セガの各地域単位で採用され、地域外への転勤がない代わりに契約は年単位で毎年更新、かつ退職金は支給されないというもの。しかしながら今回の希望退職希望者はエリア社員に対しても正社員同様勤務年数に応じた割増退職金を支給するという破格のもので、まだ転職して2年程度だった私も正直応募することを真剣に考えました。

それでも最終的に応募しなかったのは、その頃丁度店長が交替となり、新店長の下で少しでも店舗の現状を改善する方向で意思統一をしたことが大きかったのですが、結局は4人在籍した社員のうち店長と私以外の2人は希望退職に応募してセガを去ることになります。

代わりに赴任してきたのはその年の新入社員2名。セガ本社採用で期待と共に入社してきたこの2人には、いきなり酷な環境で仕事をさせることになってしまいました。会社の事情とは言え不憫に思わざるを得ません。

 

余談ですが、会社業績が芳しくない中、賞与としてドリームキャスト本体が「現物支給」されたことがあります。

家ではあまりゲームをやらない派だったので貰った直後に兄へ渡してしまいましたが、斑鳩くらいは買って遊べば良かったかな、と後に少々後悔しました。

 

 

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ダービーオーナーズクラブ筐体 SEGA VOICE より転載)

さて、色々と試練であった1998~1999年ですが、1999年後半に入ると「ダービーオーナーズクラブ」がヒットし店舗の売上向上に寄与。景品の不良在庫処理も進行し、ゲームセンター側の懸案は徐々にですが解消しつつありました。

そしてカラオケについては効率の悪かった週末の深夜営業時間を短縮、明け方までの勤務が無くなったことで社員の負担は大きく軽減されることとなります。 

 

また、テーマパークとしての営業終了後に倉庫代わりとなっていた元2階フロアが唯一一般に開放されたイベントがあります。当時のねとらぼ記事がまだ残っていました。

nlab.itmedia.co.jp

大御所系漫画家の原画展で、運営について特に店舗で協力をした覚えがないことから、持ち込み企画だったのだろうと思います。ポツポツと入場はありましたが盛況とまでは行かなかったようで、その後私が知り得る範囲では2階を使用したイベントは実施されませんでした。

 

 

色々と紆余曲折があったセガワールド四日市ガルボにおける勤務ですが、結局ここで約1年半を過ごすこととなります。そして次の店舗へは遂に店長として異動を命じられることとなります。

場所は同じ四日市市内に位置していた「セガワールド生桑(いくわ)」でした。

 

その後四日市ガルボセガカラ屋の閉店等を経て、最終的に2008年2月まで営業が続いていたようです。閉店後建屋は家具のアウトレットショップとなっていました。

何故か建屋のエレベータだけを撮影した動画を発見。


HI 服部家具センター 四日市店のエレベーター

確かにこんなエレベータあったわ!実質倉庫である2階からの物品運び出しや、同じく2階にあった事務所、従業員休憩所からの移動にしか使用されていませんでしたが。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド四日市ガルボ その2

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2020年7月24日撮影(以前に建屋が建っていたであろう場所にて)

 

「そこで働く社員やスタッフにとって大きな負担」であった具体的な要素として、以下のようなものがありました。

 

セガカラ屋の存在

当時のセガが通信カラオケ事業を手掛けており、また有り余る店舗面積を埋めるために展開された「セガカラ屋」ですが、一般的ゲームセンターは風営法の営業時間規制で夜間は24時にて閉店するのに対し、セガカラ屋は建屋が同一とはいえ入口を別個に設けて風営法の対象外としていたこともあり、平日は25時(翌日午前1時)、週末や祝前日は29時(翌日午前5時)までが営業時間となっていました。

そのため、24時まで営業のゲームセンターにおける「早番(9時出勤)、中番(12時出勤)、遅番(17時出勤)」のシフト体系に加えて追加してカラオケが29時まで営業する日には「深夜番(20時出勤)」というシフトが存在。それを4人の社員で廻すのですが24時間操業の工場3交代勤務と大差ない勤務体系を強いられました。

しかも特にカラオケは慢性的なアルバイトスタッフ不足に見舞われており、特にピークタイムである週末の20時~24時付近で対応する人員を補うため、おおよそ早番や中番の社員が定時終了後フォローする状態が慢性化していました。9~24時程度の勤務はまだ体力があった当時は乗り切れましたが、今の年齢では到底対処出来る自信はありません。

 

また、カラオケは飲食を提供していたため厨房を備えており、調理及び客室への提供は社員及びスタッフが対応します。週末の夜間が忙しくなるのは結局飲食オーダーに対応する必要があるからで、前述した長時間勤務の要因になることもさることながら、ゲームセンター勤務における業務としては通常求められない調理作業や食材の仕入れや管理といった業務が発生しますが、専属の社員はおらず全てゲーム側と兼任して対応にあたる必要がありました。通常の店舗と比べると明らかに高い負荷を求められていました。

 

②慢性的スタッフの不足

ゲーム部分の規模はホリデイスクエアと大差なく、かつカラオケを抱えていたため、前述のように社員は総勢4人配置されていました。ホリデイスクエアは3人だったのですが、契約社員2名が在籍していたため実質5名体制で、かつアルバイトスタッフも充足していたため「人出不足」になる状況には殆ど遭遇しなかったのに対し、工業地帯が近く学生バイトが少ない地域でもともとスタッフの充足が難しい場所だったことも手伝い、ゲーム、カラオケ共に慢性的に人員が不足していました。

それに加え元テーマパークであることが起因する高い固定費負担のため、人件費に大きく予算を割けないことからスタッフを必要以上に抱えることが出来ないという構造的問題も抱えていました。

 

そして、慢性的な人員不足がもたらしていた副作用として「社員とアルバイトスタッフ間の関係」があります。スタッフが少ないと店舗を廻すために社員はどうしても既存スタッフに対して下手にならざるを得なくなり、一部には社員に対して高圧的な態度をとる者もいました。また協力してくれるスタッフに対してもその負荷に対して充分に報いているとは決して言えず、その状態が続いていることでスタッフが店舗運営に対して不満を募らせていることがはっきりと伝わってきました。

 

➂高い固定費がもたらすもの

いくら店舗運営に関する固定費が通常の店舗より高いといっても、それを理由に赤字となることは企業である以上は許してくれません。

必然的に売上を大きくするしかないわけですが、1990年台後半のコナミ音楽ゲーム全盛期において、セガコナミのゲームを店舗に導入出来ない環境でした。この状況は20年経過した現在においても大きくは変わっていないのですが…

そうなると結局は一般層がプレイするプライズゲームメダルゲームで売上向上を図ることになるのですが、特にプライズについては短期的に売上を増加させるため不人気な景品ブースの即入れ替えを続けていた結果、倉庫となっている2階部分に不人気景品として外された在庫が多数積み上がり放置されていました。

店舗の管理システム上に在庫として残っている以上、いずれは処理しなければならない訳ですが、プライズ機へ投入すれば売上が下がり、またサービス台のような形で放出すれば経費が嵩んでしまうため処理が先延ばしにされ続けていたのです。

 

一方ゲーム機においては、機器償却費が高い新機種を次々と導入は出来ないため、他店と機械をローテーションして目先を変えたり、倉庫在庫を引っ張ってきたりするのですが、その中には日本で数える程しか製造されなかった「セガ、ルーレットクラブDX」などという機械も含まれていました。

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セガ・ルーレットクラブDX パンフレット:画像はヤフオクから転載)

 

ゴージャスな見た目ですが内容はただのルーレットなのでゲーム性は乏しく、またセンサートラブルでしょっちゅうエラーを出し停止するため、製造台数も少なく倉庫に眠っていたのもさもありなんというタイトルだったのですが、少しでも店舗に変化を与えるためには手段を選んでいられない状況でした。

 

 

また、当時の店舗社員は基本的に会社が契約している住居へ入居するのですが、私と入れ替えになる前任者が使用していた住居がとてつもなく汚く、台所さえも土足で入らなければならない有様だったため、前任者が部屋から荷物を完全に撤去するまで私は自分の荷物を運びこめず、営業所倉庫に一時保管しなければなりませんでした。豊橋の時とはうって変わって仕事も私生活も過酷な状況となり、「とんでもない場所へ来てしまった」との思いを持たざるを得ませんでした。

 

その3へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド四日市ガルボ その1

1998年、セガワールドホリデイスクエアの閉店に伴い、次の赴任地となったのは三重県最大の街四日市市の「セガワールド四日市ガルボ」。市南側の工場地域に程近い場所に、イオンが運営する「パワーシティ四日市」というショッピングセンターがあり、そのテナントとして営業していました。

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2020年7月24日撮影

 

「犬も歩けばイオンに当たる」とまで言われていたかは定かではありませんが、三重県、特に四日市市はイオンの前身である岡田屋発祥の地で、市内の至る所にイオンの店舗が存在しています。

「パワーシティ四日市」もイオンの施設のなのですが、他のショッピングセンターと異なっていたのは、「パワーシティ」の名称が示すように当時米国によく存在した「パワーセンター」という形態で、ショッピングセンターにありがちな大型、多階層の建屋は存在せず、駐車場の周囲を各テナントの個別の建屋が取り囲むような施設となっており、セガも複数存在した建屋の中のひとつでした。

ja.wikipedia.org

パワーセンター」の参考資料。日本ではあまり一般的ではないですね。

 

写真では「イオンタウン」となっていますが、2011年に「パワーシティ四日市」から「イオンタウン四日市泊」へ施設名が変更されています。そして2018年に一旦営業を終了して施設の全面建て替えを行い、大型の建屋の周囲を駐車場が取り囲んでいる一般的なショッピングセンターへと模様替えして2019年に再オープンしています。

 

さて、このセガ店舗が特筆すべき点はその「四日市ガルボ」という名称。

セガのテーマパーク事業と言えば、現在もお台場にて営業が続く「東京ジョイポリス」が想像されると思いますが、商圏の大きな大都市では「ジョイポリス」の名称で展開していたのに対し、スケールを小さくした小型テーマパークを「ガルボ」の名称にて平行展開していました。

www.wizforest.com

flameheart.at.webry.info

セガのテーマパーク事業の展開経緯は上記「ガルボジョイポリス」が詳しいので、転載させて頂きました。「ガルボ」という名称では四日市以外に、テーマパーク事業1号店の大阪ATCと、千葉の市川に存在していた模様です。

 

しかし中途半端なコンセプトが市場には受け入れられず、私が赴任した1998年の時点では既にテーマパークとしての営業は終了しており、普通の大型ゲームセンターと化していました。

建屋は2階建てで、大型アトラクションが設置されていた2階フロアは完全に閉鎖されお客様が立ち入ることは出来ず、アトラクションの残骸やツール類が放置され倉庫代わりとして使用されていました。ゲームセンターとしての営業は1階フロアのみで行われていましたが、テーマパークから業態変更する際にフロアに手が加えられたようで、2階を封鎖しても埋めきれない広いフロアにはビリヤードコーナーとカラオケ店「セガカラ屋」が新たに設けられていました。

 

当時のセガアミューズメント施設は地域別で管理運営されており、中部地域は愛知県、三重県岐阜県及び福井県、石川県、富山県の東海並びに北陸地域の6県を管轄していましたが、テーマパーク事業はセガ本社の直轄事業だったため、四日市ガルボのオープン時は恐らく当時のセガ中部地域は関与していない施設であったと思われます。

それがテーマパークとして撤退し普通のゲームセンターとなるにあたり、直轄から中部の管理へ変更されるのですが、封鎖されている2階部分も含めた広大な店舗の家賃は(テーマパーク撤退時に当時のイオンと交渉はされたと思いますが)引き継がれ、また恐らくゲームセンターへの改装時費用やテーマパーク時代の設備除却費用といったコストが上乗せされていたため、固定費負担が重く非常に利益率が低い店舗となっていました。

 

この「元テーマパークであったがための過大な設備」が、私を含めて当時ここで働いていた社員やスタッフに対して大きな負担を強いることとなっていたのです。

 

その2へ続きます。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールドホリデイスクエア その2

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2020年6月6日撮影(以下写真は全て同一日撮影)

 

エントリーその1で掲載した施設案内図の中で、現在「MEGAドン・キホーテ」になっている建屋がありますが、かつてそこはイトーヨーカドー豊橋店でした。

 

実はそのヨーカドー内2階にも「セガワールド豊橋」がショッピングセンター内店舗として営業をしており、同一敷地内にセガ直営店舗が2店存在するという珍しい場所でもありました。

 

このセガワールド豊橋、「セガワールド」の名称を初めて採用した店舗という話を聞いた覚えがあるのですが、真偽は定かではありません。

ショッピングセンターインストア店舗ということもありこちらは完全なファミリー向けで、プライズ機とメダル、あと子供向け乗り物(キッズライド)が中心の機械構成であり、ビデオゲームの類は皆無だったと思います。

 

社員間同士では交流があり、仕事終了後一緒に食事に行ったりしたことはありましたが、スタッフは完全に別々で管理されており、双方の店舗を掛け持ちしたりスタッフを店舗間で融通するようなことは殆どありませんでした。

 

話をセガワールドホリデイスクエアに戻しますが、前述したように建物の老朽化が著しかったこともあって建て替えが計画され、1998年に閉店を迎えることとなります。

そして1年度の1999年、「ホリデイスクエアアミューズメント棟」として新築された現在の建屋に、「セガアリーナ豊橋」及び「ソニックボウル豊橋」として再度オープンするに至ります。新たにボウリング場も併設され、そちらもセガの運営としてスタートしました。

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しかし、その1の写真で既にお気づきの方もいらっしゃると思いますが、現在の建屋には「TAITO STATION」の文字とインベーダーのロゴが踊っています。

 

これは2009年3月にて、セガからタイトーへ譲渡された店舗の中に「セガアリーナ豊橋ソニックボウル豊橋」が含まれていたためで、規模も売上も大きかったこの店舗が譲渡対象に入っていたことに驚愕した記憶があります。

 

ただ、店内を見る限りではセガ時代の内装がほぼそのまま使用されているようです。

隣のセガワールド豊橋も当初は譲渡対象店舗だったようなのですが、結局譲渡はされずにセガワールドのまま営業が続けられていました。2017年のイトーヨーカドー閉店まで営業されていたようです。それでも私が豊橋を去ってから20年間営業が続いていたんですね。

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さて、ホリデイスクエア閉店によりアルバイトスタッフの一部は近隣他店舗に移ったものの基本は雇用を終了、社員は全員他店へ配置替えとなり、私は三重県四日市市の店舗へ異動することとなります。豊橋での勤務は1年程度に留まりました。

 

閉店後の残務終了後、社員及び一部主力スタッフにて温泉旅行に行ったのは、日頃営業時間が長くまた定休日もないため、スタッフ総出でイベントを行うことがほぼ不可能なゲームセンターの勤務においてはなかなか出来ないことだったと思います。

 

それなりに楽しく仕事をさせてもらった豊橋時代ですが、四日市で最初に配属された店舗はうって変わって複雑な事情を抱えていた店舗であり、また当時のセガという会社の情勢にも翻弄される運命が待ち構えていました。